Johanna Hoffman著「Speculative Futures: Design Approaches to Navigate Change, Foster Resilience, and Co-Create the Cities We Need」

Speculative Futures

Johanna Hoffman著「Speculative Futures: Design Approaches to Navigate Change, Foster Resilience, and Co-Create the Cities We Need

スペキュラティヴデザインとスペキュラティヴなプロセスに基づいた都市設計についての本。ってスペキュラティヴデザインってなんやねんって思うかもだけど、とりあえずはウィキペディアに書いてあるように(同じウィキペディアでも英語版のほうが良い内容なのでできたらそちら参照)、ありえるかもしれない未来のあり方について人々に考えさせ、議論を産もうとするデザイン指向、と思っておけばいい感じ。これと対比されるのは、既存の社会的・経済的環境のなかで利益をあげたり部分的な改善を目指そうとする通常のデザイン指向。

著者は都市計画の専門家として行政による再開発の計画に関わるとともに、行政がそれらを住民に説明するための会合にも参加するが、多くの場合そうした場には計画に不安を感じる住民たちが押し寄せる。かれらは行政がいかに自分たち住民を無視してきたか語り、またなにか自分たちから取り上げるのではないか、と不信感を募らせる。こうした不信感には、たとえば過去に政府が黒人居住区のなかに高速道路を走らせ、多くの住民を強制的に立ち退かせたうえで地域の繋がりを切り裂いた例などから、根拠がないものではない。都市計画には早い段階から多様な住民の意思を反映させなければいけない、というのはもちろん、いま再開発が議論されている土地に何を建てるかという短期的な議論だけでなく、今後何十年というスパンでどのようなコミュニティを作りたいのか、という長期的かつスペキュラティヴな視点も必要だ。スペキュラティヴデザインの思想は、完成したデザインを提示してコミュニティの同意を得ようとするのではなく、むしろそのまま実現はしないであろう、しかし想像力を掻き立て議論を起こすようなコミュニティのあり方をユーモアを込めて提示することで、より自由な発想で住民が都市計画に参加できるようにしようとするものだ。

未来に目を向けた都市計画を指向しながら、住民がどのような街に住みたいかではなく企業がどのようなデータや方法論を取得しようかという視点からデザインされた例として、Josh O’Kane著「Sideways: The City Google Couldn’t Buy」でも紹介されたトロントの港湾施設跡地再開発が本書でも挙げられている。グーグルの子会社であるサイドウォークが請け負ったこの再開発では効率性と環境保護を名目に無数のセンサーと自動運転など人工知能を採用したテクノロジーによって人々の行動を監視・分析し活用するスマートシティを目指したが、実際にそこに住む住民の視点が欠けていたことから反対運動が起こり、グーグルは撤退に追い込まれた(一応撤退したのはコロナウイルス・パンデミックが理由という建前だけど)。

住民が参加していたとしても、その人たちが本当に住民を代表しているのかどうか、弱い立場にいる人たちが排除されていないか、という視点も重要だ。本書ではカリフォルニア州オークランドにおいてコロナウイルス・パンデミックが起きた際、一部の車道から車を排除して住民たちがディスタンスを保ちながら安全に歩いたりジョギングしたり自転車でエクササイズできるようにした。この施策は、多くの人がロックダウンによって家に閉じ込められているなか、道路を車が移動する場から人々が屋外で交流できる場に変えた、車が減ってコミュニティがより豊かになった、として当初は多くの市民から喝采を受けた。しかしすぐに、そうした声はリモートワークが可能な裕福な白人の住民が多い市北部に集中していることが明らかになる。黒人やその他のマイノリティが多く住み相対的に貧しい市東部ではエッセンシャル・ワークと呼ばれるようになった仕事に行くために人々は車を運転せざるをえない。そうした地域では、車が入れないはずの道路に多くの車が侵入し、より危険な状態になった。幸いオークランド市はかれらの声を取り入れ政策を修正したけれども、本来ならば市は人々がどのようなコミュニティを作りたいのか、特定の政策が決定してからではなく常日頃からコミュニティと対話を持っておくべきだった。

わたし個人の話をすると、いちおー政策屋として仕事をしているのだけれど、具体的な法律や制度のどこをどういじるかという話を日常的にやっているせいかスペキュラティヴな議論というのが実は苦手で、アーシュラ・ル・グィンやオクタヴィア・バトラー、あるいはマーベルのブラックパンサーといったスペキュラティヴ・フィクションからインスピレーションを得られる周囲のアフロフューチャリストな活動家たちが羨ましいと感じるのだけれど、スペキュラティヴな議論を取り入れることの良さが少しだけ分かった気がする。まあ少ししか分かってないのでうまく説明できてないけど、今後の活動にちょっとだけでもそういう視座を取り入れてみようかな、と思うくらいには影響を受けた。