Iyon Woo著「Master Slave Husband Wife: An Epic Journey from Slavery to Freedom」
南北戦争の20年前になる1840年代のアメリカで、ジョージア州メイコンから自由を求めて北部に逃亡し反奴隷制活動家として活躍した黒人カップル、エレンとウィリアム・クラフトについての伝記。奴隷とされた黒人女性と白人奴隷所有者の娘として生まれ、奴隷でありながら白人として通用するほど肌の色が明るかったエレンが白人男性に扮し、彼女の召使いに扮したウィリアムとともに逃亡した話は当時話題を呼び、かれらの講演の記録やウィリアムによる自伝など多数の資料が残っているが、それらから信用性の高い情報を集めている。
黒人女性が白人男性の奴隷所有者に扮して逃亡した話はC. Riley Snorton著「Black on Both Sides: A Racial History of Trans Identity」やMarquis Bey著「Black Trans Feminism」など黒人(トランス)ジェンダー史や逃散性をめぐる多数の書籍や研究で触れられていて、これまでにも知っていたのだけれど、かれらについてより詳しく知ることができてとても良かった。
エレンが単に白人男性に扮したのではなく、服装やふるまいを通して上流階級の、しかも障害を持つ病弱な白人男性に扮したことは、ものすごいイノベーションだった。障害がある設定にしたのは文字が書けないことを誤魔化すために腕を動かせない理由を作ったからだけれど、さらに体が弱く常に疲れているフリをすることで余計な話を避けることができた。また上流階級の人間であると思わせることは不自然な行動を誤魔化し、余計な詮索を避けるのにも役に立った。それでも道中なんどもピンチに陥るけれど、運と機転に加えて人種や性別だけでなく階級や障害の複雑な交差の知識により逃げ切ることに成功する。
エレンの奴隷として主人とともにフィラデルフィアまでの鉄道で旅をしたウィリアムは、途中何度もかれらの目的地を知ったほかの黒人たちから、目的地に着いたら逃亡するよう勧められる。フィラデルフィアでは奴隷制が廃止されており、現地で逃亡すれば自由になれる、なんなら逃亡を助けてくれる人を紹介してやる、と言われるも、本来の計画を隠すために「いや、自分はいまの生活に満足しており、逃げるつもりはない」とウソをつく。エレンとウィリアムを見た白人たちも、こんなに主人のために尽くそうとする素晴らしい奴隷は見たことがない、と大絶賛。惚気けすぎたせいで正体バレなくてよかった。
エレンとウィリアムはなんやかんやあってフィラデルフィアに到着し、さらに支援者の援助を得てボストンへ。既に同じように奴隷制から逃亡して奴隷解放運動をやっていた人たちに説得され、自分たちの経験を集会などで語るのだけれど、1850年逃亡奴隷法の成立により奴隷制のある州から奴隷制を廃止した州に逃亡した奴隷たちの捕獲・送還が活発になる。講演活動をしていたエレンとウィリアムは逃亡奴隷のシンボルとして元所有者や奴隷制支持者らにより追われ、さらなる逃亡を強いられる。
結局かれらはイギリスに亡命し、南北戦争の結果アメリカ全土で奴隷制が廃止され帰国できるようになるまで19年を過ごす。帰国したエレンとウィリアムはジョージア州で事業をはじめるも、リコンストラクションの終焉とともに白人至上主義が復権し、ウィリアムは民事・刑事ともに多数の法的問題を抱えて失敗に終わる。晩年のこうした没落がなければエレンとウィリアムの話はもっとよく知られていただろう、と著者は書いている。たしかにもっとよく知られるべき歴史なので、史実に忠実な映画化を希望。