Francis Fukuyama著「Liberalism and Its Discontents」

Liberalism and Its Discontents

Francis Fukuyama著「Liberalism and Its Discontents

90年代に歴史を終わらせちゃったことで有名な(違)フランシス・フクヤマせんせーの新著。明日シアトルで行われるかれのレクチャーを聴きに行こうと思っているので予習のために読んでおいた。現代アメリカ的な保守とリベラル双方の極端な立場から古典的リベラリズムを擁護する、というバランスの取れた立場に自分を置きたいのだろうけど、現実問題として保守とリベラルそれぞれの過激主義の脅威は著者もところどころで認めるとおり全然バランスが取れていないわけで、安易などっちもどっち論になりかけてる気がする。

かれの指摘する保守側の過激主義は、たとえばネオリベラリズムによる行き過ぎた規制緩和やそれによって起きた経済危機や労働条件や環境の破壊にしろ、トランプ派による民主主義への攻撃にしろ、現実に深刻な被害を巻き起こしている問題なのに、リベラル側の過激主義は「ネットで差別的とされる表現をしたジャーナリストがクビになった」程度の実例しか挙げられていない。著者は保守派の論者がリベラルによる権威主義的独裁を懸念する主張を紹介しつつ、実際のところリベラル側の過激派はむしろアナキズムに流れがちで右派と違い権威主義独裁にはならない(そしてアナキズムにそんなに広がるポテンシャルはない)、と正しく指摘しているんだけど、そのうえで「実際にリベラルの極端な主張が実現した社会」がどうなるかという描写はまったくの空想に基づくもので、実際に過激とされるリベラルが主張していることですらなかったりする。保守の過激主義が突出しているのにむりやりバランスを取ろうとして、現実の保守過激派の脅威と空想のリベラル過激派の脅威を併置してしまっている。

著者が現代アメリカのリベラルに抱く不審は、個人としての権利を主張するのではなく人種やジェンダーで規定される集団としての権利を主張していることと、反差別を訴えることで言論の自由を侵害しているのではないか、ということに基づいている。しかし同時に、古典的リベラルが「すべての人を個人として平等に扱う」という建て前を歴史的に、そして現代でも実現できておらず、それに対して差別されてきた側の人たちが権利を訴えるために個人としてではなく集団として運動を起こすことは否定していないし、また「差別的発言は身体的暴力とは違う」と言うけれども差別的発言が身体的暴力とまったく同じに扱われているなんてことは実際にはない。言論の自由への脅威が差別を受けた集団ではなくメディアやオンラインプラットフォームの寡占によるもたらされていることも著者は認めている。つまり実際に「過激なリベラル」によってかれが主張する古典的リベラリズムが脅かされているというよりは、やはり「いまのリベラルがさらに過激になったら」脅威になるかもしれない、という空想の話でしかないようなんだけど、せめて勝手に将来的な危険を予測するのではなく、「過激なリベラル」がいま実際になにを主張していて、その主張はこういう理由で危険だ、みたいに論じて欲しかった。

一番最後のほうにアメリカの保守はどうするべきか、という話があって、トランプが2016年に比べて2020年には(バイデンと比べればずっと低いけど)黒人など非白人の支持率を少しだけ上げた、という点を指摘して、トランプに投票した非白人たちこそがアメリカ保守の未来だ、と書いていた。著者によれば、トランプに投票した非白人たちは、BLMなどのアイデンティティ政治に興味を持つのではなく古典的なアメリカンドリームを求める人たちであり、かれらを取り込み、さらに拡大していくことでしか共和党は生き残れないと。そしてそのためには白人至上主義と決別しなくちゃいけない。それができなければ、共和党は今後も陰謀論と権威主義の党として、黒人を中心とする市民の投票妨害や独裁化を進めるしかないけれど、それが長期的に成功するとは思えない、というのが著者の考え。長期的というのがどのくらいなのかわからないけど、短期的には成功しかねないのが十分怖いよ…