Tommie Shelby著「The Idea of Prison Abolition」

The Idea of Prison Abolition

Tommie Shelby著「The Idea of Prison Abolition

アンジェラ・デイヴィスらが主張する監獄廃止論(アボリショニズム)に対する、監獄改革論者である黒人男性哲学者からの応答。

デイヴィスはもちろん学者であり思想家であるとともに活動家として、現実の運動を通して社会を変革するための主張をしているのだけれど、本書はあえて彼女の主張を哲学的に考察し、それらを真摯に受け止めたうえで、彼女が指摘する監獄・刑事司法制度の問題点は必ずしも廃止論を要請しないと主張する。そもそもアボリショニズムという考え方は、アメリカにおいて警察はもともと労働運動を抑止するとともに逃亡奴隷を捕まえ元の所有者のもとに送り戻すために生み出されたものであり、現在の監獄制度はかつての奴隷制度の直接の後継だという認識に基づいている。たとえばネットフリックスで視聴できるドキュメンタリ「13th -憲法修正第13条-」では、奴隷制を廃止した憲法修正13条がその例外として「刑罰としての強制労働」を容認する文面となっており、奴隷解放後の南部ではそれを口実に多くの黒人たちが不当な法律や裁判に基づいて投獄され、労働力として元奴隷所有者たちに安価で貸し出されたことなど、奴隷制度と現代に至る人種差別的な大量収監との直接的な関係が指摘されている。

しかし著者は、奴隷制はどう考えても正当化しようがない悪であり廃止する以外ありえないが、監獄ははたしてそうだろうか、と疑問を呈する。いまの刑事司法制度を肯定するわけではないが、貧困やその他の社会的不公正を是正することでも防止しきれない犯罪はどうしても起こるはずで、そうした犯罪を防ぐ効果が監獄にあり、それと同じ効果があるかそれより優れた方法が他にないのであれば、監獄は廃止するのではなく改革するべきなのでは、というのが著者の基本的なスタンス。著者が指摘するようにデイヴィスらの主張にはややブレがあり、監獄は常に不公正であるという規範的な主張とともに、「わたしたちが知るような」監獄は廃止すべきだ(end prisons as we know it)、というように、現存する監獄とはまったく異なる形であれば、あるいは現存する社会とはまったく異なる状況であれば、ある種の監獄が正当化される可能性を認めているような表現もある。こうしたブレは運動のなかでは大した意味を持たないのだけれど、著者は哲学者としてそこに納得がいかない様子。

著者は現存する監獄や刑事司法制度についてデイヴィスらが指摘する問題の多くを認め、それらに同意しつつ、それでもそうした認識は監獄廃止を要請しない、と主張する。犯罪を生み出す土壌となっている貧困やその他の社会的不公正は是正すべきだ、警察や裁判のあり方自体が人種差別的だったり不公正であり、警察や看守の利益団体や監獄の運営により利益を挙げる私企業の腐敗もある、世界に類を見ない大量収監は明らかに不当だし、監獄内の環境が悪く刑期も長すぎるため釈放後の再犯の確率が高く防犯の目的すら蔑ろにされている。それらを全て認めたうえで、それらを是正したうえで、それでも人間が人間である限り他人を傷つけたり人のものを奪う動機はあり続けるし、それを抑止し、どうしても抑止できない場合には一時的に社会から隔離するために、監獄は必要なのではないか、と。

ここまでくると、かれが望む監獄の改革は、デイヴィスが主張する監獄の廃止と同じくらいラディカルで、同じくらい現実味に乏しい。デイヴィスら監獄廃止論者たちも全ての改革に反対しているわけではなく、警察や監獄の権力と正統性を減らし、監獄廃止という長期的な目標に近付くタイプの改革、すなわち「改革主義的ではない改革」(non-reformist reforms)には賛成の立場だ。たとえば「警察による黒人への暴力を減らすために警察官にボディカメラ着用を義務付け、不当な暴力をふるった警察官を処罰する」というのは、結果的にボディカメラによる監視を強化し、また警察の暴力のうちどれが「不当な暴力」であるかという判断を刑事司法制度自体に預けその正統性を補強するので監獄廃止論者たちは反対するが、警察による暴力の機会自体を減らすために麻薬所持など一部の行為を非犯罪化したり警察による職務質問を制限するなど(著者も支持する)改革は監獄廃止論者たちも支持している。

著者は「自分が主張するような改革の実現が困難だというなら、どうして監獄廃止というそれよりもっと強い主張の実現ができると思うのか」と言うけれども、監獄廃止論者たちは「改革はこれまでさんざん試されてきたが、結局より優れた訓練やテクノロジーや施設が必要だとして警察・監獄予算の増加と権限拡大にしか繋がらなかった」と反論する。監獄廃止論は机上の空論だと指摘しているはずが、監獄廃止を長期的なヴィジョンとして掲げつつ警察予算削減やトランスフォーマティヴ・ジャスティスの実践など具体的な行動を起こしている廃止論者たちに対して、著者は現実にはまったく行動が伴っていない理想主義的な改革を口先で訴えている、という逆転現象が見られる。監獄廃止や警察予算削減というスローガンが右派によってカリカチュアとして政治的に悪用されている、という点についてはそのとおりだと思うのだけれど、かつては全く無視されていたのに2020年あたりから右派が取り上げざるをえないほど監獄廃止論や警察予算削減論が勢いを持っていること自体、すごいことじゃない?