Priten Shah著「AI and the Future of Education: Teaching in the Age of Artificial Intelligence」
生成的人工知能(AI)の利用が急速に増えるなか、人工知能を教育現場でどう使うかについて書かれた本。著者は教育スタートアップの創業者らしく、教師が使えるうまいプロンプトの実例集などを教えるサブスクリプションサービスを展開している。
この本は半年ほど前にダウンロードして放置していたんだけど、最近読んだEthan Mollick著「Co-Intelligence: Living and Working with AI」において人工知能の発展を受けて教育がどう変わるか、変わらなければいけないのか、という話が出ていたので興味を持ってあらためて読んだ。結果、一冊まるごと教育について書かれた本なのに、内容は「Co-Intelligence」で教育について扱っていた部分にかなわなかった。
本書の大部分は生成的AIを教師や生徒がどのように使うか、という話に費やされているが、レッスンプランを作成するためにどういうプロンプトを使えばよいか、とか、生徒の学習スタイルや障害に合わせた教材をどう作ればよいか、という話が多く、すでに教育者たちが苦労して築き上げてきた教育ツールの蓄積を軽視しているわりにはそれらに比べてとくに有利ということもなさそう。そもそもAIに教材を作成してもらったところで、それが正確でなおかつ用途や目的にふさわしいか教師がチェックする必要があるわけで、わざわざこれまでの蓄積を捨ててAIに作ってもらう必要がわからない。さらに、AIで作られたものは教師がチェックしろと言いながら、学習障害や視聴覚などの障害がある生徒や、英語を母語としない生徒のためにふさわしい教材をAIに作らせることができるとか、英語を話さない保護者との連絡にAI翻訳を使えるという話もしているが、個々の教師がそれらをきちんとチェックできるとは思えない。
「Co-Intelligence」と同じく本書でも、生徒に文献を読ませて要約させたり意見を書かせたりすることを通して生徒の理解を促すような教育のフォーマットが生徒たちがAIを使うようになって無効化されてきていることが指摘されている。AIの利用を禁止するようなポリシーを作っても一時しのぎにしかならないし、AIを使っていることを上手に隠すスキルを育てる結果にしかならない。AIを使って作ったものを人間が作った風に装うスキルはもしかしたら今後の実社会で必要とされる技術なのかもしれないけど、それを育てるのは文学とか歴史とか個々の分野の教育目的とは異なるように思う。かといってAIを使うことができないようなミニテストを多用するような教育はそれもまた違うし、あらかじめ生徒を疑ってかかるのもどうか、として、AIの正しい使い方を教えることを本書は主張しているけれども、現行の教育のあり方にとらわれているように見える。「Co-Intelligence」のほうが小手先のことではなく教育そのものがどう変化していかなければいけないか論じられていて良かった。
教室におけるAI利用によるプライバシー侵害やアルゴリズム的差別の定着についても教育者たちは気をつけるべきだ、ちゃんと教えるべきだ、と言いつつ、ある程度のリスクは受け入れるしかないとして「気をつける」以上の対策はない。と同時に、中国で実験的に採用された、生徒がちゃんと授業に集中しているかを監視するために生徒にヘッドギアを装着させてAIでチェックする技術について好意的に紹介している点は、著者のスタンスに非常に危険を感じる。著者のビジネスの宣伝にもあんまりなっていない残念な本だった。