Jennifer C. Nash著「Black Feminism Reimagined: After Intersectionality」

Black Feminism Reimagined

Jennifer C. Nash著「Black Feminism Reimagined: After Intersectionality

2019年の本だけれど今週(というかこの記事を投稿する時点で12時を過ぎているので「今日」)ワシントン大学で著者によるセミナーがあるので最速で読み直したのだけど、重要文献だからついでに一応紹介しておこうかなと。でも読むの3,4年ぶりだしめっちゃ速読したのでおかしかったらごめん。と言い訳をしておいたところで、この本はインターセクショナリティと女性学、ブラックフェミニズムの関係について黒人フェミニストの著者が批判的に検討しインターセクショナリティの新たな可能性を訴える内容。

インターセクショナリティという言葉は黒人女性法学者で批判的人種理論家のキンバリー・クレンショーが書いたいくつかの重要な論文から広まったけれども、それが指し示す事実––黒人女性は黒人として人種差別を受け女性として性差別を受けるだけでなく、それらの和ではない黒人女性として特有の差別経験をしている––はそれより古くから何度も指摘されてきた。クレンショーより10年はやく有名な声明文を発表したコンバヒー・リバー・コレクティブはもちろん、公民権運動の時代に活躍したフランシス・ビール、奴隷制末期に生まれ19世紀末から20世紀にかけ活動したアナ・ジュリア・クーパーなど、多くの黒人女性たちがそれぞれインターセクショナリティの複数的な起源としてブラックフェミニストたちによって論じられてきた。

著者はブラックフェミニズム内部のさまざまな議論を引き、インターセクショナリティがブラックフェミニズムの聖典となってしまった結果、インターセクショナリティの概念に対するさまざまな批判や「間違った」用法––正面からの否定や攻撃のほか、その中心から黒人女性を外そうとする動き、インターセクショナリティよりさらに有効だとするアプローチまで––からインターセクショナリティを保護し、原典に書かれた意味をそのまま保持すべきだという一種のオリジナリズムに陥ってしまっていると批判する。

多くのそうした議論においてインターセクショナリティの擁護者たちは、「インターセクショナリティは〜というように批判されているが」と前置きしたうえでインターセクショナリティを防衛しようとするのだが、その際に批判が誰のどういう論文に書かれているか明確に引用されることは少ない、と著者。ほぼ唯一インターセクショナリティへの批判者として名前が出ているのが「Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Times」が有名なJasbir Puarだが、黒人女性が同じことを言っていてもそこまでインターセクショナリティへの敵対者(つまりブラックフェミニズムの否定者であるとされ、黒人女性への差別者だというニュアンスまで生じてしまう)として認識されることはなかったはずなのに、彼女が黒人ではない非白人(南アジア系)の女性でありクィア理論家であることが関係している。いずれにせよ、インターセクショナリティが保護を必要としているとして、インターセクショナリティを危険に晒しているのがたった一人の南アジア系クィア理論家であるはずがないのに、彼女の主張が必要以上にブラックフェミニストの防衛反応を引き起こしていることは、インターセクショナリティの発展をブラックフェミニストたちが自ら押し留めているのではないか。

もちろんインターセクショナリティが「間違った」用法によりその意義を失いかねない危険はある。著者は全米女性学会の歴史を振り返り、女性学というディシプリンが発足した1970年代当初は同団体が「反人種差別」をその目標の一つに掲げ、毎年の大会を「白人フェミニストがより良いフェミニストになるための機会」として黒人女性から学ぶ、というかたちで、反人種差別を実践しながら学会そのものが白人女性のためのものだというカルチャーを作っていたことを指摘する。それが決定的に破綻したのが有名な1990年のオハイオ州アクロンにおける学会。全米女性学会の事務所で働いていた唯一の黒人女性が解雇され、彼女が解雇は人種差別に基づくものだと告発したことから大会のボイコットが実施され、全米女性学会は解散寸前に追い込まれた。わたしが全米女性学会に参加するようになったのはこの少しあとで、非白人女性部会に出入りしてボイコットを主導した人たちの話を聞いただけでなく、実はわたしのフェミニズム理論の恩師(白人女性)が当時この学会の会長をやっていたこともあり、まあ両方からいろいろ聞きましたわさ。書かないけど。

その後、全米女性学会では(著者は書いてないけどたぶんミネソタ大学関係者の影響で)グローバルフェミニズムをテーマとして取り上げるようになったけれども、この言葉も女性学のなかではガヤトリ・スピヴァクを通して知られるようになったサバルタン・スタディーズ・グループの影響で南アジア系女性のフェミニズムのほぼ代名詞として使われるようになってしまい、国内の黒人女性に向き合うのをやめて国外の南アジア系女性に目を向けている、と、ここでもまた白人女性たちの迷走が黒人女性と南アジア系女性の対立に転換されてしまう。その後フェミニズムではインターセクショナリティの概念が一気に広まり、女性学の根本的な思想として位置づけられるようになったが、そこではインターセクショナリティをあくまで黒人女性の経験に基づいた黒人女性を主体とする思想なのか、それとも黒人女性をメタファーとした普遍的な権力分析のツールなのか、という緊張が生まれる。そういうなか、白人フェミニストによってインターセクショナリティの概念が黒人女性の経験やブラックフェミニズムへの言及を欠いたままほかのさまざまなことに拡張されたり(たとえばこれ)するので、それに対してブラックフェミニストたちが危機感を抱くのは当然。

それを分かったうえで、著者はブラックフェミニズムはインターセクショナリティを聖典の地位から降ろし、黒人女性による独占から解放し、愛のある批判や批評をとおしてインターセクショナリティ概念とブラックフェミニズムそれぞれのさらなる発展を目指すべきだ、と主張する。それはもちろん、インターセクショナリティを黒人女性と関係ないただの一般的な理論として扱うことではなく、インターセクショナリティの概念を生みだした固有の経験や歴史を踏まえたうえで、聖典として現状のまま守り続けるのではなくインターセクショナリティの裾野を広げていこうという提言だ。

ほかにも非白人クィアの理論とブラックフェミニズムの関係や法哲学・国家論などたくさん興味深い話があって紹介しきれないので、インターセクショナリティについてちょっとだけ深く考えたい人は読んで。