J. Russell Hawkins著「The Bible Told Them So: How Southern Evangelicals Fought to Preserve White Supremacy」

The Bible Told Them So

J. Russell Hawkins著「The Bible Told Them So: How Southern Evangelicals Fought to Preserve White Supremacy

公教育における人種隔離を禁止した1954年の最高裁からはじまる20世紀中盤の黒人公民権運動に対する南部の白人福音派キリスト教徒たちの抵抗について、サウスカロライナ州の主要な宗派であるバプティスト教会とメソディスト教会に注目して詳しく記述した本。著者はメソディスト系の大学でアメリカ宗教史や南部史などを研究する専門家。

奴隷制の時代、奴隷とされていた南部の黒人たちには当然信仰の自由などなかったが、白人所有者の判断によって教会に連れて行かれたり礼拝に参加させられることがあった。ある意味当時の南部社会においては、教会は白人と黒人が(明快に不平等ではあるものの)一緒に集まる数少ない社会的な場でもあった。しかし南北戦争の終結により黒人たちが自由になると多くの黒人たちはそれまで通っていた教会から離脱し、あるいは追放され、自分たちの教会を設立したり、自由を得た同胞を支援するために北部からやってきた黒人たちの宗派に参加するようになり、そこから50年間以上にわたって教会における人種隔離が一般化する。

1950年代から1960年代にかけて公民権運動が広がると、ケネディ大統領は公民権法への支持を広めるために各教会の指導者たちに協力を要請。リベラルな宗派の指導者たちがキリスト教的な信念をもとに人種差別撤廃に賛同するなか、南部の指導者たちは人種隔離は神の意思に基づくものであり宗教的な理由から人種融合路線には賛成できないと主張。宗派の全国組織が人種隔離反対を決議しても、南部の教会がそれに従うことを拒否したり宗派を離脱して別の組織を結成するなどの抵抗を続けた。また人種差別反対を掲げる牧師が自分が率いる教会の信者から不信任を突きつけられ解雇されることも多発した。

人種隔離は神の意思に基づくものであるという宗教的信念の根拠としてかれらが最も頻繁に引用するのは、使徒行伝17:26の「(神は)あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである」という部分だ。多くの南部の白人宗教的指導者たちがこの句を引用し、それぞれの人種が純粋な血統を守ることが神の意思であると主張した。またほかにも、人種隔離の撤廃は白人と黒人の混血を生むことになるとして、レビ記19:19「あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。」という神の定めに反するとも主張した。これに対して差別撤廃を支持する人たちは聖書に多数ある信者間の平等を指示する内容や、実際に異なる民族や宗教の人が一緒に生活している描写を引用して差別廃止こそがキリスト教に基づくものだと主張したが、少数派であったかれらは「自分たちの主張に合わせて聖書の文言を恣意的に引用している」と批判された。

最高裁判決から時間はかかったものの、実際に公立学校における人種隔離が廃止されだすと、Jack Schneider & Jennifer Berkshire著「A Wolf at the Schoolhouse Door: The Dismantling of Public Education and the Future of School」にも書かれているように、南部の白人政治家たちは親が子どもを学校に通わせる義務を撤廃したり、公立学校を廃止して各家庭にクーポンを配りそれぞれ好きな私立学校(人種的に隔離されている)に通わせることができる政策を実施した。しかし公民権運動とそれに対する暴力的な弾圧がメディアの注目を集めたことにより人種隔離の主張をおおっぴらに続けることが難しくなると、かれらは「家族の価値」を掲げ、ほんの少し前には黒人の子どもと同じ学校に通わせるくらいなら公立学校を廃止したほうがマシと言っていた人たちが、こぞって「親は子どものために最高の教育を与える義務がある」という主張にシフトした。かれらは人種平等に反対しているわけではない、と言い訳しつつ、人種隔離を撤廃して黒人がそれまで白人専用だった公立学校に通うことになった結果校内の治安や学習水準が悪化したとして、白人専用の私立学校の優位性を主張した。教会はこれらの市立学校に建物を提供するなど協力した。

人種平等の世論はさらに広まり、教会内部でも人種隔離を宗教的信念として主張することが難しくなると、人種差別の撤廃には人々が交流を通してお互いを受け入れ、自主的に関係を持つことが必要だ、とする新たな論理が支持を広めた。これは人種差別を制度的な不平等や不均衡ではなく個々の心の中に見出し、それが自然に解消されることを望む、という意味であり、政府による強権的な人種隔離制度の撤廃に反対する立場を取る。またかれらは同時に、人々が心の中にある差別感情を無くすためには人を人種ではなく個人として判断するべきだとし、人種差別について論じたりデータを取ったり差別撤廃の取り組みを行うことに抵抗した。南部の白人教会が自らの人種差別の歴史を誤魔化し、差別撤廃の動きを妨害するために生み出したこうした考え方は、いまでも多くの白人たちに共有されている。

人種隔離を(あるいはその前の時代だと奴隷制度を)神の意志であるとする聖書解釈を現代の価値観から見ると説得力が一切感じられないのだけれど、ゲイやトランスジェンダーに対する差別の根拠を聖書に求める現代の宗教右派の言動も将来的には同じくらいアホらしく見えるようになるのだろうか。あと、メソディスト教会のなかで人種差別に反対していた人たちのなかに、アジアやアフリカで宣教師をしていた人たちがいたようで、かれらは本国アメリカの教会が反人種差別の立場を明確にしなければアジアやアフリカの人たちはキリスト教ではなくマルクス主義に向かってしまう、と言っていたという話があり、これは当時のアメリカ政府が公民権法制定を急いだ理由と同じ(アジア・アフリカの新独立国を共産圏に取られないよう、アメリカは人種差別的ではないと証明する必要がある)という点が本書でも指摘されているけれど、興味深かった。