Heather Berg著「Porn Work: Sex, Labor, and Late Capitalism」
マルクス主義フェミニストの研究者による、2010年代アメリカにおけるポルノ労働についての本。フェミニストによるポルノについての研究は、その社会的な影響だったり表象についての批評や議論だったりするものが多いなか、実際にポルノ産業で働いている人たちに注目し、かれらがどのような産業構造をどう生き延び、また作り変えているか、という内容。
ポルノ産業といってもいろいろな種類があり、昔ながらのロサンゼルス近郊サンフェルナンド・バレーを中心とした地域にある大手プロダクションから地方の新興業者、出演者自身がコンテンツを作り販売するサイト、フェミニストや(ゲイ男性向けではなく)クィア・ポルノを掲げる反主流系ポルノサイト、誰でも有料動画を配信できるサイトや好きな俳優の動画や画像が見られるサブスクリプション制SNSなどさまざまな形でポルノ労働は行われ、その作品が提供されている。またポルノ産業のすぐ外側には、ポルノで名前を売った出演者たちがストリップクラブにフィーチャーパフォーマーとして招かれてツアーをする仕組みや、ポルノで生まれたファンを相手にしたウェブキャム(リアルタイムなプライベート配信)やエスコートの市場があり、逆にもともとそれらの現場で働いていた人がファンを増やすことを主な目的としてポルノに出演することもある。
かつてはポルノを撮影するにはカメラや照明など高価な器具を必要とし、また出来上がった作品を売るにはアダルトショップや劇場などとのコネクションが必要だったが、高速なインターネットおよび安価なコンピュータやスマホが普及したことにより、ポルノ制作への参入障壁は減った。それとともにこれまで市場を独占していた大手プロダクションは激しい競争に晒され、かつてほどには制作に予算をかけられなくなる。そこで出演者に支払われる出演料が削られ、出演者の着る衣装やメイク担当のスタッフを準備せずに、それらのコストが出演者側に丸投げされる形に。ポルノ現場で一度着た衣装は二度と別の作品では着られない、という慣例があるので出演者には大きな負担になるかと思いきや、人気俳優はファンに下着などの衣装を買わせてそれを作品内で着ることでファンサービスとし、さらに使い終わった衣装をネットで販売する、みたいな形(著者の言うところの「下着の弁証法」)で適応したり。
大手プロダクションが集中するカリフォルニア州の法律では、ポルノを含む俳優はたった一日の起用でも被雇用者として扱うことが決められているのだけれど、ほとんどの現場においてそれは守られておらず、俳優は個人事業主として扱われている。プロダクション側はそれを理由として衣装やメイクは出演者自身が責任を持つべきだとか、現場までの交通費や出演するためには必須とされているHIV検査の費用は出演者本人が負担すべきだとしているけれども、被雇用者ではなく個人事業主として扱われることは出演者の多くが希望していることでもある。これはストリップクラブで働くダンサーたちやネヴァダ州の合法売春宿で働く人たちにも共通の傾向。一般には個人事業主より被雇用者として扱われたほうが労災保険の対象になるなど労働法上の保護を受けられるので、労働運動をやっている人たちは「性労働者たちは被雇用者としての権利を主張すべきだ」と言うけれど、実際こうした産業で働いている人たちの多くは労働行政が本当に自分たちを保護してくれるとは信用しておらず、むしろ被雇用者として扱われると自由を失う危険があると感じている。
ポルノ制作への参入障壁が減った結果、出演者たちは大手プロダクション作品の出演をギャラを得るための仕事としてよりも、自分の名前とブランドを広めるための宣伝と意識するようになる。つまり、ファンを増やしたうえで自分のサイトや有料動画、さらにはストリップクラブでのショーやエスコートサービスに誘導することを狙って大手の作品に出演する。中には大手プロダクションの撮影の合間に豪華なセットを使って自撮り動画を撮ったりする人もいるらしい。出演する現場で撮影や編集の仕事を見てスキルを覚え、制作側に回ろうとする人も多く、古典的な意味での「資本家vs労働者」という構図は成り立たなくなっている。これは資本家と労働者という関係が存在しないという意味ではなく、たしかにそうした関係は存在するけれども、同じ人がある現場においては労働者であり別の現場では他の労働者を雇う資本家である、という役割の流動化が見られるという意味だ。
黒人やラティーノ、トランスジェンダーの人、障害者など、大手プロダクションの作るポルノでは差別的なステレオタイプに基づいた役割を与えられがちだったり、そもそも起用されにくかったりする人たちにとって制作側に回ることは、自分を差別的なステレオタイプのみとして多数派社会によって消費されず、自分たちのコミュニティ本来の欲望やセクシュアリティを描写する作品を作り、それを望む消費者に届けることにもなる。こうしたオーセンティシティへの希求はしかし、オーセンティシティへの欲望というかたちで商品化され、また労働を自己実現の一環だとい思い込ませることにより資本が労働者を搾取するための道具の一つになりうる。「女性のオーセンティックな性」を売り物にするフェミニスト・ポルノ運動はその一例であり、男性目線によって作られたファンタジーを演じるかわりに自分の本当の一部をさらけ出すことを要求しながら、出演料はほかの現場に比べてはるかに低い。フェミニスト・ポルノの制作は価値のある社会的活動だという名目により、出演者の労働が本当の労働ではなく「実益を兼ねた趣味・社会活動」とされてしまっている。「セックスワークはワークである」という性労働者運動の有名なスローガンがあるが、ある意味でフェミニスト・ポルノ推進者たちは反売買春論者たちと同様にそのスローガンを否定している。
この本が明らかにするのは、ポルノ労働に従事する人たちを効率的に搾取しようとする資本に対して、資本を利用して自分たちの主体性と自由を守ろうとする労働者たちの抵抗、そしてその抵抗をまた飲み込んで搾取しようとする資本〜という複雑な循環だ。そうした現代的な労働環境において、伝統的な労働運動のロジック、たとえば個人事業主ではなく被雇用者として扱わせることで労働行政の保護を受けようとする考え方は、現実にそぐわなくなっている。これはポルノ労働だけの話ではなく、Uberをはじめとするギグ・エコノミーやフリーランス・ジャーナリストなどの現場などにおいても見られるパターン。上では「被雇用者なら労災保険の対象になる」と書いたけれども、ポルノ労働に従事する人たちが医療を受けられないとしたら、問題なのはかれらが個人事業主扱いされていることではなく、必要な医療を誰もが受けられるような制度になっていないことであるはず。
ちなみにこの本にまとめられた研究のため、著者は多くの出演者たちに加え、監督やプロデューサ、パブリシストなど多数の業界関係者たち(そのなかには出演者も兼ねている人や、かつて出演していた人も多い)にインタビューしているのだけれど、経営者側の人たちが著者の質問に対して「どのようにして出演者を安く使うか」などヤバい質問にも正直に応えたり、出演者との契約書(違法な内容がそこそこ含まれている)を見せてくれるなど不思議なくらい協力的だった、という話がおもしろい。どうやらかれらは彼女が反ポルノ派ではないかどうかばかり気にしていて、彼女がマルクス主義者であることにはとくに警戒が及ばなかった様子。