Grace Ji-Sun Kim and Susan M. Shaw著「Surviving God: A New Vision of God Through the Eyes of Sexual Abuse Survivors」
保守的な福音派キリスト教を信仰する家庭で育てられ、性暴力の被害を受けたサバイバーでもある二人の著者が、女性やマイノリティに対する暴力を容認し加害行為を隠蔽しようとする家父長制的な信仰にかわるサバイバー神学を打ち立てようとする本。
著者のうち一人は子どものころ家族とともに韓国からアメリカに移住しコリアン教会のコミュニティに育てられた女性で、もう一人は南部で敬虔な福音派の家庭に生まれ大人になってからクィアであることを自覚した女性。ともに幼いころに性暴力を経験し、しかし信仰深い周囲の人たちの無理解や倒錯した道徳的非難、わたしたちに理由が分からなくとも全ては神の意思に基づくものだという説得に苦しめられたことから、一家を従え言いなりにさせる家父長制的な神への信仰を放棄、サバイバーたちの被害に寄り添い、ともに傷つき悩む神を聖書から見出した。著者らの聖書解釈は、プロセス神学を基調とし解放神学やフェミニスト神学などを取り入れたものとなる。
福音派キリスト教が推奨する純潔文化・純潔教育が女性に性暴力予防やその失敗による性暴力被害の責任を負わせ、加害者に対する理解と許しを強要するものであることは、Emily Joy Allison著「#ChurchToo: How Purity Culture Upholds Abuse and How to Find Healing」やSarah McCammon著「The Exvangelicals: Loving, Living, and Leaving the White Evangelical Church」でも触れられているが、本書はそれよりさらに聖書解釈や神学に踏み込み、女性やマイノリティに対する暴力を可能としている神学的な過ちを指摘する。
なかでも一番印象的なのは、ローマ帝国によって磔にされ殺されたイエスがおそらくローマ兵による性暴力の被害を受けていたであろう点を指摘する部分。最もポピュラーな神キリスト教の解釈では、イエスはすべての人の罪を背負って処刑されることで贖罪を果たし、それによって多くの信仰ある人たちが救われることになった、というものだけれど、著者らは聖書に数多く書かれている性暴力や虐殺、奴隷制などあらゆる出来事は神の意志に基づくという前提を否定するプロセス神学を援用しながらこの贖罪論を批判。イエスが殺されたのは単に社会改革者としてのイエスがローマ帝国にとって不都合になったからであり、人々の救済のためにイエスが性暴力を受けることを神が望むはずもないし、それなしでは神が人々を救えないはずもない、と。タイトルの「surviving god」は「(子どものころ教わった)神の概念をサバイブする」というだけでなく、「神自身がサバイバーである」という二重の意味で、イエス自身のそうした経験を通して神はサバイバーたちとともに苦しみ、ともに生きようとしている、と語る。
キリスト教信者でないわたしから見ると、著者らの聖書解釈のほうが福音派のものより望ましいとは思うものの、どちらが正しいかと言われても困るとともに、福音派の教会にしばらく通わされていた経験から「自分たちの好みによって聖書を読み替えてしまっていいの?」という気持ちがどうしても浮かんでくる。いやいや福音派の聖書解釈だって「聖書をありのままに読む」と自称しながら結構ご都合主義的でいい加減だし、それぞれの時代の権力者たちが自分に都合のいい解釈を押し付けてきただけでしょ?と頭の中では分かるのだけれど、聖書はこういうものだと強く教えられてきたせいでそのあたりなかなか吹っ切れない。しかし本書はこれまでのさまざまな神学論を押さえたうえでしっかりと議論してくれているおかげで、これまで以上に「そういう解釈もアリだな」と思わせてくれる。