Emily Joy Allison著「#ChurchToo: How Purity Culture Upholds Abuse and How to Find Healing」
ハッシュタグ#MeTooを受けて「教会内における性暴力」について告発するために生まれたハッシュタグ#ChurchTooを作ったサバイバーによる本。ただ教会内で性暴力が起きているというだけでなく、アメリカの保守的なプロテスタント教会で起きている子どもへの性虐待やその他の性暴力、そしてそれらの隠蔽が、教会が掲げるジェンダーやセクシュアリティに関連した教義(聖書解釈)と無関係ではないことを厳しく糾弾している。
著者が批判するのは、プロテスタント教会で1990年代に一般化した「純潔文化」。「本当の愛は待つ」というスローガンとともに全国の教会で「結婚まで純潔を守る(セックスしない)」ことを子どもたちや未成年に宣誓させる儀式が行われ、純潔を誓った人には指輪が与えられた。「純潔を守る」というと男性も女性も同じ決まりを遵守するよう求められているように見えるけど、実際のところ男性と女性とではまったく扱いが違う。女の子たちは「男性は性的に興奮すると我慢できなくなる」ということを教えられ、男性を誘惑しないために服装や仕草を気をつけるよう言われる一方、男の子たちは「誘惑を遠ざける」ためにポルノを見ないよう厳しく言われる。こういう価値観のなか男性が女性に性暴力をはたらいた場合、誘惑した女性が一番悪い、ということになってしまう。もちろん誘惑に負けた男性も悪いとはされるのだけれど、もともと「男性は興奮したら我慢できない」という価値観が前提としてあるので、ある意味仕方がない、という扱いを受ける。
これは保守的な教会が運営する各地の大学の規則からも明らか。そうした大学では同性愛はもちろん異性同士の結婚前のセックスも厳しく禁止しており、一対一で個室に入ってはいけないなどの細かいルールも少なくない。性暴力はそうした「性的な罪」のなかに含まれているけれど、著者がツイッターで呼びかけてそういう大学に通っている学生から大学の規則を集めたところ、婚前交渉を禁止している大学で、合意あるセックスと合意のない性暴力を区別しているところはなかった。「合意」という概念の欠如はそうした教会における「性的な罪」の扱いと共通していて、「純潔を守れ」という文脈ですら「合意しない権利」は取り上げられない。教義的には、結婚するまでは男女ともにセックスする権利はなく、結婚したら女性は男性に自分の体と性を捧げるものだから、いずれにしても「合意」という概念は入り込まない。
もし「セックスに合意しない権利」を認めたら、それはすなわち「合意する権利」もあるということになってしまうので、そうした教会では性的合意について一切触れようとしない。また問題が発覚したときも、「わたしたち全員が罪人でありイエス・キリストの贖いによって許されている」という教義が選択的に適用されることで、被害者と加害者はどちらも対等なのだとか、被害者には加害者を許す義務がある、と被害者を言いくるめようとする。その結果、教会に雇用されている30代の青少年指導員が16歳の女の子に性的暴力をふるったことが発覚したとき、「お互いに罪をおかしたことを認めあい、許し合いましょう」として両者にハグをさせる、みたいな解決策が取られる。それ以前に、性暴力の被害を受けた子は自分が被害を受けたとすら認識できず、罪をおかしたことを非難されることを恐れて誰かに相談することも当然できず、自分が誘惑したからいけなかったのだと思いこんでしまうことも多い。
そもそもプロテスタント教会が純潔を熱心に推奨するようになったのは、1970年代以降の話だ。それ以前のプロテスタント教会は純潔や妊娠中絶反対などは(当時はまだマイノリティとして差別の対象となっていた)カトリックの考え方だと認識しており、いまでは強硬に妊娠中絶反対を叫んでいる宗派のなかには当時は中絶合法化を支持していたところもある。当時プロテスタント教会が注力していた政治問題は、教会が運営する大学が黒人の入学を拒否する権利を守ることであり、黒人の入学を認めない大学から免税特権を剥奪しようとする連邦政府と激しく争っていた。そのうち人種隔離を許さない社会的合意が生まれたことで、かれらの主な政治的主張が「黒人を差別する権利を認めろ」から「純潔を守れ、妊娠中絶を禁止しろ」に入れ替わった。
性暴力についての本はどれを読んでも息苦しくなるのだけれど、この本もそうだった。わたし自身、実は高校生のころ南部バプテスト教会に通わされていて「純潔の誓い」もやらされたし、教会のなかで見聞きしたなかにもいろいろ思い当たることもある。本書の終盤にはハッシュタグ#ChurchTooに寄せられたサバイバーたちの証言と、かれらが他のサバイバーたちに向けたメッセージも載せられていて、息苦しいけどとても良かった。