Adam H. Domby著「The False Cause: Fraud, Fabrication, and White Supremacy in Confederate Memory」
奴隷制を守るために南北戦争を起こし敗北した米国南部がのちに自分たちの正当性と優越性を主張するために生み出した神話「ロスト・コーズ」についての本。
最近米国各地で南軍やその指導者を称える像や旗の撤去が議論となっており、ロスト・コーズに対する歴史学的な検証や批判の本もKaren L. Cox著「No Common Ground」、Robert Levine著「The Failed Promise」、Ty Seidule著「Robert E. Lee and Me」など多数の書籍が出ている。この本はそのなかでもロスト・コーズという「大きな嘘」を構成している多数の「小さな嘘」を検証し、その虚構を暴き立てる。
ロスト・コーズは南北戦争後しばらくたった19世紀末から20世紀前半に「連合国の娘たち」や「連合国兵士の息子たち」といった団体によって広く宣伝された。その大筋は、南部は物量の差によって軍事的には北部に敗北したが、アメリカ憲法に則って正しい行動を取ったのは南部の側であり、しかも南軍は指導者から一兵卒に至るまで史上もっとも高潔で立派な軍隊であった、というもの。2021年1月の議事堂占拠事件で暴徒の一部が南軍旗を掲げていたが、客観的に見れば米国に対する反乱軍であるはずの南軍の旗を愛国的なアメリカ人を自認している人たちが掲げるのは、南部こそが正しく北部は憲法を踏みにじって南部を弾圧した、と認識しているからだ。
南部が米国からの独立戦争を起こした本当の理由は「奴隷制の擁護」ではなく「連邦政府による専制と南部の自治権侵害への対抗」である、というのはロスト・コーズの中心的な主張であり、現在の歴史学でははっきりと否定されているけど、この本が主に検証するのはそこではなく、南部が米国からの独立を目指して全員一致して立派に戦った、という部分だ。南北戦争の当時必ずしも南部の白人たちの意見が一致していたわけではなかったこと、南軍が市民の非協力的な態度や徴兵拒否、兵士の敵前逃亡に悩まされたこと、負傷兵のために設立された年金制度が不正請求の餌食になったことなど、多数の資料を引用しながら南部の連帯と高潔さという神話に効率的にケチをつけている。
たとえば、南部で広く語られた南北戦争の逸話として、エドワード・クーパーという兵士の話がある。クーパーは南軍に従軍中、故郷に残した妻から「息子に食べさせる食べ物もなく困窮している、休暇をもらって帰ってきてくれ」という手紙を受け取る。上官に何度も休暇を申請するけれども認めてもらえず、やむを得ず部隊を脱走して家族のもとに戻る。かれが上官の許可を得ず脱走したことを知った妻は、それはとんでもないことだ、わたしたちのことは気にせず部隊に戻ってくれ、とかれに訴え、かれはもとの部隊に戻るけれど、戻った先でかれは敵前逃亡で逮捕され、軍法会議にかけられる。軍法会議でもかれに同情する声が多かったものの、規則上かれには死刑判決を下すしかなかったが、ロバート・リー将軍が恩赦を出してかれは軍への復帰を認められる。その、軍の温情に感激したかれは戦場で勇ましく戦い、残念ながら戦死してしまった。
このストーリーは南部では歴史教科書に掲載されるなど広く知られていたが、歴史学者たちはこのストーリーは実話ではない可能性が高いと判断している。南軍の兵士や軍法会議の記録には該当する兵士は見当たらないし、敵前逃亡で有罪となっても軍法会議は死刑以外の刑罰を与えることも可能だった。そもそも逃亡後自らの意思で部隊に復帰した場合は逃亡罪ではなくそれより軽い「無許可で部隊を離れた」罪に該当するし、人員不足に悩まされていた当時の南軍にせっかく復帰してきた逃亡兵を死刑にして失う余裕はなかった。
事実に基づかないこうした逸話が南部で広く受け入れられたのは、それが「南軍の高潔さと士気の高さ」を掲げるロスト・コーズにとって都合の悪い「徴兵拒否や逃亡兵が大勢いた」という真実を誤魔化すためにちょうどいいからだ。敵前逃亡した兵はいたけれどもそれは家族を救うためにやむなく取った行動であり、南部に対する忠誠心を失ったわけではなかった。それに対して家族は自分たちより南部の勝利を優先しろと兵士を説得し、復帰した兵士に対して軍は温情で遇した。カレのストーリーを通して逃亡兵の存在というロスト・コーズの大義に疑問を抱かせるような要素を説明することで、それは無害化される。
また、戦後しばらくたって負傷兵を救済するために設立された元南軍兵士のための(のちに高齢になり困窮化した元南軍兵士全員に拡張された)年金制度の資料からも、ロスト・コーズにとって不都合な真実とそれがどのようにして無害化されたのかを見出すことができる。兵士の従軍記録や年金支給、さらには出生記録や国勢調査の記録を突き合わせて調べたところ、年金を受給していた人のなかには実際には従軍していなかった人、敵前逃亡した兵士など、明らかに不正な受給をしていた人が異常に多く、なかには南北戦争当時幼児だったはずの人や生まれていなかった人も多かった。福祉の不正受給は現在でもたびたび問題とされるけれど、それらと比べても元南軍兵士のための年金制度では桁違いに不正受給が多かった。
従軍記録や出生記録は当時からあったのにどうして不正が横行したのか。当時元兵士として年金を申請するためには一緒に従軍した経験があるとする人など複数のほかの兵士の証言が必要であり、資料ではなくコネによって元兵士が認定される仕組みだった。年金制度がはじまる頃にはすでにロスト・コーズは広まっており、ロスト・コーズに異を唱えるような人は元兵士であってもほかの兵士に敬遠され認定を受けるのに苦労する一方、ロスト・コーズを共有する人は高潔な愛国者であり疑うこと自体が失礼だとされた。
元南軍兵士が広く尊敬を集めるなか、実際には従軍していなかった人が元兵士として社会的評価を得ようとする不正も多発した。新聞記事や講演で従軍経験を語った元軍人のなかには歴史的資料から従軍が確認できない人が少なからずいたし、敵前逃亡や米軍(北部)側で参戦した記録が残っている南部出身の人が訃報記事では元南軍兵士として追悼された例も多数あった。また元南軍兵士たちの戦友会(同窓会のようなもの)は20世紀中盤まで続いたが、その終盤には自称100歳を超える人が統計的にありえないほど多数残り、最高齢の人は自称130歳を超えていたが、その人たちの多くは年齢を詐称しており実際には南北戦争当時には生まれてすらいなかった。それでもロスト・コーズの宣伝に都合が良い限りにおいて不正が暴かれることはごく稀だった。
ロスト・コーズの歴史捏造が最も顕著なのは、南軍のために働いた黒人たちの存在についてだ。長らくロスト・コーズでは奴隷制は野蛮な生活をしていたアフリカの人たちを文明化し、かれらに仕事と食事と住居と衣服と信仰を与えた人道的な制度だったとしていた。黒人奴隷たちは白人たちに感謝して現状に満足しており、奴隷解放は黒人たち自身の要求ではなく南部の豊かな文化を破壊することを狙った北部の過激派による陰謀だとしていた。その証拠に黒人たちは南軍に積極的に協力し、奴隷制が終わったあとも多くの黒人たちは元所有者の白人たちに仕えることを選んだ、という。
南軍では黒人たちを兵士として採用することはなかったが(黒人奴隷による集団逃亡や反乱は定期的に起きており、黒人たちを軍に入隊させて武器を渡そうとする白人はいなかった)、従軍する白人の使用人として連れてこられたり、料理人や鉄道員などとして徴集された、あるいは積極的に南軍に追従する黒人たちはいた。なかには自分の意思で南軍に追従した人もいたが、それは軍についていけば戦場で米軍(北軍)に接触し、北部に逃亡したり米軍に義勇兵として参加することができたからだった。なお21世紀のロスト・コーズ支持者たちは南軍の資料にこうした黒人使用人たちの存在が記されていることをもって「南軍には黒人が白人と平等に従軍していた証拠だ」と主張しているが、20世紀のロスト・コーズ支持者からみればありえない主張。
19世紀末以降、ロスト・コーズ支持者たちは「黒人たちは奴隷制に反対しておらず、南部では白人と黒人は平和に共存していた」という主張の根拠として、そのとおりの証言をしてくれる元奴隷の黒人たちを利用した。そうした黒人たちは戦友会や「連合国の娘たち」などロスト・コーズを広める団体に招待され、奴隷制の時代は良かった、自分は南軍が勝つために協力したが負けてしまって残念だ、などと発言した。戦後50年以上たった頃には、南軍のために働いた老いた黒人元使用人のための年金制度も設立されたが、そもそもその時点まで生き残っていた人がごく少数だったうえ、受給するためには二人の白人元兵士の証言が必要だったため、ロスト・コーズを信奉する白人たちと良好な関係にある人しか申請することはできなかった。ロスト・コーズに同調する黒人たちは講演料や年金などから金銭的に利益を得ることができたが、北部に逃亡したり米軍に参加した黒人たちと比べて圧倒的に少数だった。
このように、ロスト・コーズはそれ自体が大きな嘘であるばかりか、都合の悪い事実を覆い隠すような多くの小さなストーリーを共有し、また多くの人たちがそれぞれ自分の利益に繋がる小さな嘘をついたことで成り立っている。南部が奴隷制と人種差別の歴史と決別するためには、ロスト・コーズによる南部の歴史の独占に抵抗し、南軍への協力を拒んだ白人、米軍に参加した南部の黒人や白人、そして奴隷制度から逃亡したり反乱を起こした黒人たちの歴史を「南部の歴史」の一部として人々の記憶に残す必要がある。