Tom Mustill著「How to Speak Whale: A Voyage into the Future of Animal Communication」
2015年にカリフォルニア沖でクジラを見学するツアーに参加していた際、突然大きなクジラが海面をジャンプして現れ乗っていたカヤックの上に落ちてきて死にかけた経験をした生物学者で自然映像作家の著者が、以来クジラに夢中になって、クジラと人間のコミュニケーションの可能性を探る本。クジラ落下事件は同時にツアーに参加していたほかの人たちが映像に撮って公開した結果、当時めっちゃバズってた。
クジラが海中で起こす鳴き声は昔からヒーリングミュージック的にレコードとして発売されたこともあったけれど、海中の音を録音する技術が発達し、また人工知能による分析が可能になったことで、近年研究が進んでいる。ただ単により多くの音を録音できるようになっただけでなく、人工知能を使うことでどのクジラが発した音なのか、どの種のクジラなのか、などの特定も可能になりつつあり、たとえばある研究によれば、ある種のクジラは500種類以上の異なる音を発声しそれを特定のパターンで繰り返すことが確認されているという。
人工知能といえば、機械学習によってかつては不可能とされていた機械翻訳の精度が近年格段に向上していることがよく知られている。インターネットによって大量のテキストデータが入手可能になり、その分析によってプログラムが「内容を理解しないまま、正しい翻訳を確率的に算出する」ことが可能になったわけだが、それは人間によって正しく翻訳された多くのデータ(たとえば国連会議の各国向けの議事録)が存在していたおかげであり、すぐにクジラと人間の翻訳には応用できない。
しかし機械翻訳のさらに進んだ研究では、対となる翻訳が存在しない2つの異なる言語のあいだでも、データが大量にあればそれぞれの構造を分析して翻訳することができるようになっており、その技術の延長線上に人間とクジラやほかの生物のあいだの翻訳を目指す研究も行われている。もちろん人間の言語同士の翻訳が可能なのは、どちらの言語もそれを話している人間の脳の仕組みや生物学的な生態が似通っているから、という要素が大きいので、そもそも言語を話しているのかどうか、ボキャブラリを持つのかどうかも明らかではないクジラと人間のあいだの翻訳というものが論理的に可能なのかどうかは明らかではないのだけれど、それでも著者はクジラとコミュニケーションを取れる可能性に期待を寄せる。
本書がおもしろいのは、クジラとのコミュニケーションを夢見るクジラの熱狂的なファンとしてクジラの行動や発声をこうではないのかと考える一方、人間以外の動物を擬人化して人間的な内面を投影するアンソロポモーフィズムを冷静に否定する生物学者としての考えも著者のなかで同居していることだ。読者としてもそうした著者の頭の中の綱引きを後追いしながらあれこれ考えさせられる。コミュニケーションやクジラの発する音、そして機械学習の生物研究への応用といった話が多くて、クジラの生態についてももっと知りたかったなあと思ったけど、いろいろ知らなかったことを知ることができたのでとりあえず満足。