Michael Walzer著「The Struggle for a Decent Politics: On “Liberal” as an Adjective」

The Struggle for a Decent Politics

Michael Walzer著「The Struggle for a Decent Politics: On “Liberal” as an Adjective

日本語にもいくつもの本が翻訳されている87歳のリベラル派政治哲学者が自身「最後の著書」として書いた本。リベラリズムはかつては一つの政治思想だったが今ではさまざまな政治思想に適用できる汎用的なアプローチであるとして、「形容詞としてのリベラル」についての持論を展開する。

著者の言う「形容詞としてのリベラル」とは、多様な意見の競合を前提とし、少数派の権利を守りつつ多数決による民主的な意思決定を尊重する姿勢のこと。リベラルな社会に住んでいると当たり前すぎて忘れてしまいがちだけれど、権威主義傾向を強める多くの国の動向を見れば分かる通り、これは決して当たり前のことではない。権利の尊重と民主的決定を前提としたうえでどのような政治を選択するかはそれぞれの民衆に委ねられており、それが社会主義でも伝統的コミュニタリアンでもナショナリストでもインターナショナリストでもそれが自由と民主主義に基づいている限り「リベラルな」という形容詞をつけることができる(例:リベラル社会主義、リベラルナショナリズム等)。

それは同時に、それらの政治思想がその内容に関わらず「反リベラル的な」傾向に陥りかねないことも意味している。たとえば民主主義に基づいたリベラルな社会主義は可能だけれど、社会主義政権が自らを守るために自由を抑圧したり選挙を制限したりすると「反リベラルな」社会主義となる。これはほかのさまざまな政治思想にも共通に存在する危険であり、たとえば社会主義やナショナリズムなど特定の政治思想に特有の危険ではない。著者はブッシュ41st政権の「対テロ戦争」への支持を表明したことから反戦派の左派メディアから叩かれ追い出される経験もしたが、左派からの戦争支持論を排除することは非リベラルな姿勢であると反論した。

著者はこのように「リベラルな」政治を強く擁護するのだけれど、たとえば公民権運動のあとを継いだブラックパンサー党らのブラックナショナリズムを排他的だと攻撃し、イスラエル国家による占領に対するパレスチナ人の抵抗運動を非リベラル的な暴力として否定したり、2020年のブラック・ライヴズ・マター運動の最中にミネアポリス、シアトル、ポートランドで起きた暴動や衝突を(警察やプライドボーイズなど右派による暴力を棚上げして)一方的に「非リベラル」だとして非難するなど、最近あまり見なくなった古いタイプの白人リベラル論客的な上から目線がうざい。「リベラルな」フェミニズムについての章でも、やたらとフェミニストが教条的でポリコレで異論を封じ込めるキャンセルカルチャーになっている、大学から言論の自由が奪われている、的な議論をしていて、いま現在実際に教育現場で攻撃にさらされているのは人種差別についての史実やLGBTに関する知識などを扱うことであることを見ていない。

先に書いたとおり、最近あんまり見かけない、というかわたしが遭遇しないタイプの白人男性左派の主張で、一瞬目新しい気がしてしまうのだけれど、世の中ではけっこうこういう人はまだいるんだよね、と思い出した。うざかった。