Kat Calvin著「American Identity in Crisis: Notes from an Accidental Activist」

American Identity in Crisis

Kat Calvin著「American Identity in Crisis: Notes from an Accidental Activist

アメリカ各地で虚偽の「選挙不正」の言いがかりを口実として投票する条件として身分証明書の提示を義務付ける法律が広がるなか、身分証明書を持たないために投票できないだけでなく就職や結婚、社会福祉受給、銀行口座開設、長距離バスや航空機での旅行などができずに苦しい生活を強いられている多くの人たちの存在と、かれらが身分証明書を作ることが極端に困難になっている現実を伝える本。

著者は黒人女性の弁護士で、はじめは多くの人たちが身分証明書を持たないために選挙から排除されている問題に取り組もうと考え、ジョージア州アトランタで身分証明書を持たない人たちに州政府が無償で提供している「有権者身分証明書」を取得させるプログラムを発足させる。しかし投票することだけにしか使えない「有権者身分証明書」の取得には出生証明書などさまざまな書類を揃える必要があり、苦労してそれらを揃えて証明書を取得したとしてもそれは投票以外には一切使えないため希望者は三ヶ月たっても一人も現れなかった。

のちに彼女が理解したのは、「有権者身分証明書」が面倒なだけでまったく使えない書類であることは偶然ではなくもともとの設計によるものだった。南北戦争のあとに成立した憲法修正13条から15条では奴隷制から解放された黒人たちに市民権と参政権を保証したが、南部諸州は人頭税を導入し、それを支払っていない人は投票できないという規則を作った。これは奴隷制から自由になったばかりの貧しい黒人たちを狙い撃ちにしたジム・クロウ法の一つであり、かつては合憲とされていたが、公民権運動が広がった1964年に成立した憲法修正24条では人頭税やその他の税金の支払いを選挙参加への条件とすることが禁止された。近年になり南部を中心に多くの州が選挙への参加に身分証明書の提示を義務付けた際、身分証明書の取得に料金がかかることが税の一種とみなされて違憲になるおそれがあるということで、これらの州の多くは投票だけにしか使えない「有権者身分証明書」を創設、必要な書類を提示すれば無償で発行する制度を設置した。しかしこの制度はそもそも違憲判決を逃れるためのアリバイに過ぎず、実際にはほとんど利用されていないし、役所の窓口の人すらほとんど知らない。必要な書類を揃えることができる人は投票だけにしか使えない「有権者身分証明書」ではなく通常の運転免許証や州身分証明書を取得するし、それらの書類を揃えることができない人は無償の「有権者身分証明書」も取得できない。

前述のとおり著者ははじめ多くの有権者たちが選挙に参加できない問題を解決するために「有権者身分証明書」の取得を支援する活動をはじめたのだが、実際に身分証明書を持たないために苦労している人たちの話を聞いたことで、かれらが本当に必要としているのは生活のあらゆる面に影響する普通の身分証明書であって「有権者身分証明書」ではないことに気づく。そして彼女はそういう人たちが書類を揃えたり役所とやり取りするのを支援する活動を続けるうちにそのノウハウを蓄積し非営利団体を設立、各地でボランティアを動員して多くの人たちの生活を向上させている。

運転免許証や身分証明書を持っている人たちの大半は、ほかの人たちにとってそれを取得することがどれだけ大変なのかわかっていない、と著者は言う。というのもかつてアメリカで身分証明書を取得するのはそれほど大変ではなく、多少書類が欠けていても学校や病院の記録や周囲の人の宣誓証書などで代替することができた。当時運転免許証や身分証明書を取得してそのまま更新している人たちは、いまでも簡単に身分証明書が取得できるという印象を持っている。しかしハイジャック犯たちが合法的に取得した身分証明書を使って飛行機に乗り込んだ2001年の同時多発テロ事件以降、身分証明書の発行は厳格化され、書類が欠けている人の取得は困難に。身分証明書の取得には出生証明書の控えが必要で、出生証明書の控えを入手するには身分証明書の提示が必要、というようなトラップに多くの人がはまって抜け出すなくなってしまった。

出生証明書や社会保障カードなどの書類を家族がずっと実家に保管してくれている環境にあった人はいい。しかし家族が離散したり、ホームレスになったり、火事や自然災害で書類を失ったり、長期入院したり刑務所に入っていた人などが失われた書類をふたたび入手するのは難しい。また、かつては親元にいるうちに16歳になったら親の助けを得て運転免許証を取得することが当たり前だったけれど、都市部では運転免許を取らない若者が増えているため、かれらの一部は将来的に身分証明書を取得することに苦労するかもしれない。また南部ではむかし黒人の出生記録などをきちんと保存していなかった地方も少なくなく、そういう人たちは出生証明書自体が存在しないことも。どこの機関にどういう書類があってどうすれば入手できるのか、もし無ければどうすればいいのかというノウハウを知り尽くした著者ならできることでも、一度書類を失った一般の人が誰の支援も受けずにそうした書類を揃えて身分証明書を再申請するのは不可能に近い。そのせいでまともな仕事もできず、住居を借りたり学校に通ったり医者にかかるのにも苦労している人たちが、一体なにをしたというのか。同時多発テロ事件直後にバタバタと行ったテロ対策のせいで多くの国民が普通の生活をする自由を失っているのはバカらしいし、そういう人たちが可能性を発揮できずに社会の隅で暮らしているのは社会的損失も大きすぎる。

著者は身分証明書の取得を支援する非営利団体のほかに、身分証明書発行の制度を改革するための政治団体も設立しており、州ごとにバラバラの現行制度に替えて全国共通の身分証明書を全国民に発行することを主張している。コロナウイルス・パンデミックの際に支援金をバラ撒くことができたことから分かるように、政府はすでに全国民のデータを十分に保有しているし、一元的に管理すれば必要な書類が州や連邦のさまざまな機関に保存されていて一般人が自分の書類を揃えることができないという問題もなくなる。そうしてアメリカ国民全員が身分証明書を持つことができるようになれば、身分証明書の部署はそれを紛失してしまった人やデフォルトで身分証明書を与えられていない移民などへのサービスに集中できる、と著者は主張するのだけれど、現状「多くの人が身分証明書を持っていない、持つことができない」からこそ身分証明書を提示しなくても受けられる民間の支援までもが身分証明書の提示を要求するようになってさらに困る人が出てくる気もする。また著者は全国共通の身分証明書にバイオメトリックなデータを入れることで個人の認証を可能にすることを考えているようだけど、それも弊害をきちんと考えたほうがよさそう。ただまあ、現状のままでいいはずがないので、議論は進めるべき。