Joe Strike著「Furry Planet: A World Gone Wild」
ファーリー(日本で言うところのケモナー)についての本。と言いつつケモナーは日本において独自に発達した文化でありファーリーと同じではない、と書かれているけど、まあそれはいいとして。
著者はファーリーのカテゴリを人間的な形態や内面を持つ動物の描写やキャラクターを愛好する人たちの間で起こったカルチャーとしている。著者も示しているとおりそういったキャラクター自体は古くから絵画や演劇・小説などに見られ、とくに子ども向けの物語には多く登場している。そのため「子どもっぽい」とされることが多いそうしたキャラクターを一定の年齢以上になっても愛好し続け、また自分もそういうキャラクターになりきりたいと思う人たちが集まるのが、ファーリー文化だ。ファーリー文化は世界中に見られ、本書では北米・アジア・ヨーロッパ、南米からその実例が紹介されている。
ファーリーの原点はアメリカではディズニー、日本では手塚治虫だ!という、まあこじつければそう言えるだろうけど実際どーなんだろ?というような話から、ファーリー文化におけるファンダムやアーティストとライフスタイル系ファーリーの関係、とくに性的ファンタジーにファーリーが含まれる人とそれ以外の対立といった話題から、若いクィアたちがゲイやトランスとしてカミングアウトするより気楽に自分のジェンダー表現やセクシュアリティを模索するためにファーリーを経由する例や、ファーリー文化のなかのネオナチの存在など、思ったよりさまざまな話題が出てきて興味深かった。この本を読もうと思ったのはPaige Maylott著「My Body Is Distant: A Memoir」の著者がトランス女性としてカミングアウトする前にセクシーなメスウサギのアバターでセカンドライフに出入りしていた、という話を読んだのがきっかけだったんだけど、本書でも実際セカンドライフで活動するファーリーが結構いるみたいな感じだった。あと「マイリトルポニー」ファンの「大きなおともだち」であるブロニー文化との関係についての記述もおもしろいし、スマートフォンで脈を測るための技術を開発した研究者がファーリーで世界一のファースーツ(着ぐるみ)のコレクターだという話とかやばい。
ただ動物の擬人化(人間形態化)において男性と女性のキャラクターの造形の違いについて「女性のほうが人間の要素が多くなる」(胸やお尻、くびれなどがセクシーな人間の女性的に描写される、化粧やリボンなど人間の女性を示す意匠が付けられる、など)ことについて指摘しながらこれまでさんざんフェミニズム批評が行ってきた分析に踏み込まなかったり、性同一性障害と同じように自分は種同一性障害だ、種再判定手術を受けたい、というファーリーたちの一部の人たちが冗談で言っていることを記述しながら「種同一性障害」や「種再判定手術」という言葉がトランスジェンダー叩きのために現実に悪用されている事実に触れないなど、物足りない部分も。いちおう「ファーリーの生徒に配慮して学校に猫用のトイレが設置された」という話題が保守派によって拡散されたけどデマですよ、という話は書かれているんだけど。