Frederick Joseph著「Patriarchy Blues: Reflections on Manhood」

Patriarchy Blues

Frederick Joseph著「Patriarchy Blues: Reflections on Manhood

貧しい地域でシングルマザーに育てられた黒人男性の著者が、かれと似た境遇に育った非白人の男の子たちがどのようにして自分の弱さや精神的トラウマと向き合わず、暴力やミソジニーを内包した男性性を身に着けてしまうのか、自身の経験からエッセイや詩の形で語る本。たとえば子ども時代、著者の母親はかれに黒人としての誇りや歴史を教えると同時に、近所のガキ大将にいじめらて大切なポケモンカードを奪われて泣いて帰宅した著者にいじめっ子と戦ってカードを取り返すよう言いつけ、それまで家に帰ってくるなとドアを閉めた。それは著者が黒人男性として厳しい環境を生き抜くために必要なことだったけれど、そうした経験を通して著者は、悲しいときに泣くことを忘れ、暴力で物事を解決することを覚えさせられた。また、幼いころベビーシッターから性的虐待を受けた著者は、そのことを誰にも相談できないまま、他の男の子より性的経験は早いことはむしろラッキーだ、誇らしいことだ、とする周囲の風潮に惑わされ、自分が経験した不快感やトラウマを否定した。

そうして育った著者は、同じく黒人男性の友人が近所のトラブルに巻き込まれて殺された際、壁を殴りつけていくつもの穴をあけるほど怒り狂い、加害者をぶちのめしてやることしか考えられない若者になった。殺された友人の葬式でも一切涙を流さない著者に対して、その友人の母親は「あなたのように涙を流せない男が多いから、わたしの息子は殺されてしまったんだ」と語った。本の前半は、こうした経験を通して著者が自分を捕らえている「男性性」の牢獄に気づき、そこから自分を取り戻すとともに、自分やほかの男性たちが当たり前のように共有していたミソジニーやホモフォビア・トランスフォビアなどに向き合うようになる物語。

ところが本の後半になると、白人フェミニズムの人種差別に対する批判が繰り返され、その批判の大部分はこれまで黒人女性フェミニストらも言ってきた妥当なものなのだけれど、そのうちはっきりと「一部の人は父権制は白人至上主義と同じくらい抑圧的な力だと論じているが、歴史はこの見解を繰り返し否定している」として、人種差別が性差別より深刻な抑圧だと言ってしまっている。その歴史的根拠というのは、白人フェミニストが人種差別より性差別への取り組みを優先させた例や、白人女性が白人至上主義団体で活躍した事例などだけれど、黒人男性による性差別の実例だって同じように存在するわけだし、なんでそんなこと断言しちゃうかなあという気が。白人女性と黒人男性が「性差別と人種差別のどちらがより深刻か」を議論するのは不毛だし、そんな分断は黒人女性の存在を引き裂いてしまう。ほかの部分では黒人女性をリスペクトしつつ引用しているのに、この部分だけは黒人女性たちのこれまでの議論を踏まえていないようでとても疑問だった。