Erica Thompson著「Escape from Model Land: How Mathematical Models Can Lead Us Astray and What We Can Do About It」
かつては経済の分析に採用されることが主だったが近年あらゆる分野に応用され、政府によるさまざまな政策の根拠としても影響力を増している数理モデルについて、現実との乖離が生まれる理由やその倫理的な側面などについて解説する本。著者はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに所属するデータサイエンティスト。
数理モデルは複雑な現実から要素を削ぎ落とし、答えようとしている問題に関連の大きい要素だけを残すことで単純化し、予測や分析を可能にする手段。どの要素を残すかに決めるためにはどういう問いに答えようとしているかという目的が必要で、どんな問いにも答えられるモデルは存在しない。たとえば明日の天気を予測するために必要なモデルと長期的な気候変動を予測するためのモデルは同じ天気・天候を対象としていても、そこに必要な要素は大きく違うのが当たり前。モデルは現実を単純化することでなんらかの予測や分析を行うためのものだけれど、導き出された答えが現実に合致しているかどうかはまた別に検証する必要がある。過去のデータを完全に説明できるモデルを作ることができたとしても、それが新しいデータにも適用できる保証はなく、かえって過去のデータに適応させすぎたせいで予測に使えなくなることもある。モデルは有用だけれど、そこで得られた結論はまた現実世界に戻して検証されなければいけない。
本書の前半はモデルと現実の複雑な関係やそれが現実から乖離した実例などが解説されるが、後半では著者が実際に関わってきたコロナウイルス・パンデミックや気候変動のモデルについて批判的に扱っている。たとえば気候変動の影響を最小限に収めるためには巨額のコストがかかるとされており、一部の経済学者や政治家たちは気候変動対策のコストは気候変動そのものがもたらす被害を上回るべきではない、と主張している。かれらが策定した数売モデルによれば、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が訴える「産業革命以前に比べて1.5度以内の気温上昇におさめる」という基準は経済的に最適ではなく、3度程度の気温上昇であれば受け入れたほうが結局コストが安くつくとされる。コロナウイルス・パンデミックをめぐっても、ロックダウンによる経済的損失などパンデミック対策のコストがパンデミックそのものの被害を上回っている、という批判があった。
これは一見もっともな主張だが、モデルがどこのどういう立場にある人たちによって設計され、単純化するためになにが省かれているのか、検証される必要がある。たとえば気候変動による経済的な損失を計算するうえで、たとえば災害や飢饉で失われる命はどのように算定されているのか、もし命の価値の評価に生涯収入が関係するなら先進国の命と途上国の命に差が付けられるのではないか、伝統的な土地を失ったり食文化を維持できなくなる損失は、失業率の上昇は収入の低下だけではなく社会の不安定化や難民の増加にも繋がるけれどそれは計算に含まれているか、などさまざまな問題が考えられるが、そうした損失や不均衡はどこかの誰かが別のモデルで計算したうえで論文として発表し、それが数理モデルに取り入れられるまでは勘定に入らない。
だからモデルが示唆する結論は、常に社会的・倫理的な側面から評価される必要があるし、そうした評価をもとに民主的な決定がくだされる必要がある。また、モデルがより多くの人たちの価値観や利害を反映するためには、モデルの設計や評価に関わる人たちはより多様化されなければいけない。モデルの設計そのものに無意識的にではあっても設計者の価値観や利害が反映されうるということは、モデルが導き出した結論は客観的なものではなく、それを支持するかどうかは「科学的事実」だけではなく価値観や倫理をめぐる判断でもある。数理モデルをうまく利用しつつ、その現実における評価や倫理的判断を忘れないための本。