Dina Porat著「Nakam: The Holocaust Survivors Who Sought Full-scale Revenge」

Nakam

Dina Porat著「Nakam: The Holocaust Survivors Who Sought Full-scale Revenge

六百万人の同胞を失ったホロコーストへの復讐と未来への警告のために、ホロコーストを生き延びた少数のユダヤ人たちのグループが計画した六百万人のドイツ人殺戮計画についての本。著者はイスラエル人の歴史学者で、本書は2019年にヘブライ語で出版されたものの英訳。この計画についてはウィキペディア日本語版の「ナカム」の項目にも英語版の翻訳(機械翻訳っぽいけど)が掲載されている。

第二次大戦後のドイツの大都市の水道システムに毒を流してドイツ人を大量虐殺しようとした計画は紆余曲折を経て(あるいは計画に納得がいかない組織内部の人によるサボタージュもあった可能性もあり)未然に失敗し、実際に実行できたのは米軍が管理するニュルンベルクのドイツ人捕虜収容所のパンに毒を塗って数千人の捕虜たちが体調を崩した事件だけ。当初は数百人の捕虜が亡くなったとの報道もあったけれども実際にはこの事件による死者は確認されていない。もし元の計画が成功していたらヨーロッパにおけるユダヤ人に対する迫害はいまより格段に激化していたはずで、人知れず失敗したことは全世界のユダヤ人にとって幸運だった、と著者は書いている。

著者はドイツ人に対する無差別な殺害を倫理的にも現実的にも批判するけれど、本書は同時に復讐と正義の関係について厳しく問いかける。法的に言うなら私的な復讐は決して認められず、社会正義の実現は法制度によって成されるべきで、仮に法制度がもたらした結果に納得がいかなくても受け入れなければいけない。その観点からは復讐は正義に反した行動とされる。しかし法が社会正義を実現しようとしないとき、あるいは法そのものが社会正義を踏みにじるとき、実際に行動に移すことは少ないとはいえ、わたしたちは私的な復讐によって社会正義を実現しようという衝動を抱く。その場合、復讐は正義に反するのではなく、正義をもたらすための最後の手段となりうる。

また復讐は記憶とも強く関係している。たしかに戦犯に対する裁判などにより、一部のナチス指導者たちの責任は問われるかもしれないが、史上これまでなかったほど大規模かつ組織的なユダヤ人の殲滅に加担した多くの一般のドイツ人たちの責任は誰が問うのか?六百万人のユダヤ人やその他の多くの人たちが犠牲となったとされるホロコーストの重大さを、その数字を聞いた人が本当に理解することができるのか?ホロコーストが起きた後、どのようにわたしたちはまたそれ以前と同じように平然と労働し、恋愛し、子どもを育て、生きて行けるというのだろうか?多くの同胞たちがパレスチナへの移住とイスラエルの建国、そしてそこでの新たな生活を目指すなか、どうしても「先に進む」ことができない人たちがいた。自分が生き残ったのはただの偶然でしかなく、ドイツ人に対してなんの復讐もせずヨーロッパを立ち去るのは殺された仲間たちへの裏切りではないのか?同じだけのドイツ人の命を犠牲にすることなく、六百万人の失われた同胞の命の重さを世界に示すことなどできないのではないか?

これらの問いに加えてわたしが本書で興味深いと思ったのは、ドイツ人捕虜収容所で捕虜に与えられるパンに毒が塗られていた事件が発覚した際の米軍などの反応。かれらはこれをドイツ人に対する復讐だと正しく推理したけれども、ポーランド人やフランス人の元レジスタンスがそれを実行したのではと疑い、ユダヤ人がそれを行ったとは考えもしなかったという。ドイツ人に最も恨みを持っていそうなのはユダヤ人であるはずなのに、ナチスによって徹底的に叩きのめされたユダヤ人たちにそのような大それた復讐を実行する実力や精神力があるとは思いもしなかったらしい。一人の死者も出さなかったことを含め、ユダヤ人殺害は許されないというメッセージを送ろうとしていた首謀者たちの狙いは外れたわけだけれど、そのせいもありユダヤ人によるドイツ人に対する大規模な組織的復讐の計画が表沙汰になるのは1980年代末だった。

復讐は良くない、とくになんの責任もない子どもたちまで犠牲にするような復讐は到底認められない、と言うのは容易いが、ホロコーストという人類史上の悲劇の重大さを世界に正しく記憶させたいサバイバーたちの問いは重く響く。復讐を否定するのであれば、復讐を必要としない、復讐を行わなくても社会正義が実現される世の中を作るための行動にコミットすることが必要だ。