Dannagal Goldthwaite Young著「Irony and Outrage: The Polarized Landscape of Rage, Fear, and Laughter in the United States」
米国において、右派が故ラッシュ・リンボーやビル・オライリー、ショーン・ハニティに代表されるAMラジオやFOX Newsなどの政治トークショーを得意としているのに対し、左派がジョン・スチュワート、スティーヴン・コーベア、トレヴァー・ノアらが出演するケーブルテレビのニュースコメディ番組や深夜のバラエティ番組を得意としているのはどうしてか、という問いに答える本。著者は政治メディアを専門とするコミュニケーション研究者で、彼女自身が行った研究を含めさまざまなデータを紹介しつつ右派と左派の心理的な傾向の違いがそれぞれ「怒り」(右派)と「アイロニーまたはサタイア」(左派)という異なるスタイルの番組を嗜好するようになったことを指摘するとともに、それらが同じ技術的・政治的背景から生まれ似たようなかたちでそれぞれの観客に受容されていることを指摘する。
トークラジオやニュースコメディが一般化した背景というのは、それぞれのメディアが活発になった1980年代からのケーブルテレビの普及であり、また同時期にレーガン政権が進めたコミュニケーション業界の規制撤廃だ。それまでも政治的なトークラジオやコメディはあったけれど、その多くはローカルなもので、メディアが少なかった時代に3大ネットワークは視聴者の半分を敵に回すような番組を放送することはできなかったし、規制によって政治的に偏った番組も禁止されていた。ところがケーブルテレビの普及によってチャンネルが一気に増え、よりニッチな視聴者層を狙ったチャンネルが作れるようになると同時に、規制撤廃によって政治的な偏りが容認されるようになるだけでなく、メディア業界の寡占化が進み、以前よりはニッチであっても全国的に影響を与えるコンテンツが生まれるようになった。
これまでの多数の政治性向と心理の研究を踏まえて、著者はリベラルは保守に比べて新しい情報を求めそれについて考えることを好み、曖昧さや未解決な状況に寛容だという。それに対して保守は完成した秩序を好み、物事がきっちりと分類されている状況を求める。もちろんこれは傾向であって、すべてのリベラルや保守に当てはまる話でもなければ、一人の人の中でもどちらか一方だけだということはないけれど、興味深いことにこうした傾向は政治的な話題についてだけでなく、美術品や映画や小説の嗜好にも当てはまる(たとえば美術品なら、リベラルは抽象画や現代芸術にもオープンだが、保守は写実画を特に好む傾向があるという)。ホストが視聴者に対して直接意見を視聴者に披露するトークラジオが保守に受けるのに対し、コメディアンがアイロニーやサタイアを通して何を言わんとしているのか視聴者に考えさせるニュースコメディがリベラルに受けるのは、こうした心理的傾向に基づくものだという。
「なにがコメディなのか」というのは厳密には難しい話なのだけれど、本書ではトランプとクリントンがそれぞれ2016年の大統領選挙中に言ったジョークなどを例にあげて、リベラルのジョークと保守のジョークの違いが示される。たとえばクリントンの「人々は自由の女神を見て移民の国としての誇らしい歴史と世界の人々の希望に思いを馳せるけれど、トランプは自由の女神を見て『4点』としか思わない」というジョークは、トランプが移民を排斥し世界に背を向けようとしているという批判とともに、かれが女性に対して外見で評価することしか考えていない、というサタイアで成り立っていて、オチを聴衆に考えさせる仕掛けになっている。それに対してトランプの「ヒラリーがどれだけ腐敗しているかというと、彼女はウォーターゲート事件を調査する委員会から解雇されたんだ、どれだけ腐敗してたらウォーターゲート委員会から解雇されるっていうんだ?」というジョークは、「ヒラリーは腐敗している」という結論をそのまま言ってしまっていて、なんのひねりもない。(ちなみにこのジョークの元ネタはデマ。ファクトチェックはこちら。) どちらのほうが面白いのかという問題ではなく、ユーモアの質が違っている。これはたまたまそういう例を持ち出したというわけではなく、わたしの観測からも、リベラルのユーモアはコメディアンが自虐したりアイロニーやサタイアを用いることが多いのに対し、保守のユーモアは誰かを直接貶めたり嘲笑したりすることが多いように思う。
ちなみにコメディの世界では「パンチアップ」(権力のある側、多数派の側、あるいは自分のいる側を笑いにする)という鉄則があるのだけれど、保守のユーモアはその逆に女性やマイノリティを笑いにする「パンチダウン」になることが多く、笑えないし、コメディクラブではブーイングの対象になる。トランプが警察官の集まりで「逮捕した犯人を護送車に入れるとき、もう少しラフにやってもいい、かれらの頭を守る必要なんてない」と発言した際、人権団体ばかりかトランプを招待した警察組織すらその発言を批判したけれど、トランプは「ジョークだった」と釈明した。本気だったのかジョークだったのかはともかく、それをユーモアとして扱うには「警察による暴力」という問題が切実すぎて、警察組織自身を含めて誰も笑えなかった。
本書では、保守トークラジオに対抗するためにのちに上院議員になった(そして過去のセクハラが明らかになりやめさせられた)リベラル派のコメディアン、アル・フランケンを中心に設立された「Air America Radio」と、逆にジョン・スチュワートの司会で人気を博していた「The Daily Show」に対抗するためにFOX Newsがはじめた保守サタイア番組「1/2 Hour News Hour」を挙げて、その両方がコピーしようとした相手側のフォーマットを理解できず短期間に失敗に終わったことも分析されている。「Air America Radio」はフランケンの他にもコメディアンを多数起用した結果、視聴者の感情に訴えるデマゴギーではなくてスマートなアイロニーやサタイアに頼ってしまっただけでなく、誤情報はきちんと訂正するし(実はわたし、むかしAARに抗議メール出して、フランケンにオンエアで謝罪してもらったことがある)不適切な発言をしたホストは解雇された。また「1/2 Hour News Hour」では「オチを直接言うのではなく視聴者に考えさせる」というサタイアの手法は取られず、民主党の女性議員の外見を笑いにするなど「The Daily Show」とは似ても似つかない番組になってしまった。
そうした違いこそあれ、トークラジオとニュースコメディは視聴者に政治的な情報(特に前者の情報はデマであることも多いけど)を伝え、政治に関わる動機を与えるという役割を果たしている。それらが政治の分極化をさらに促進させているという点は非常に問題だけれど、リベラルと保守の心理的傾向はどちらも必要でバランスを目指すべきだ、と著者は言う。そのうえで、リベラルなコメディアンたちはほとんど政治集会で演説したり特定の政治家を直接応援したりはしないけど、保守トークホストの「怒り」がかれら自身やかれらが応援する政治家によって視聴者を扇動するために使われやすいという点に著者は危惧を示している。そのほか、各メディアの歴史やユーモアの哲学など興味深い話題がたくさん書かれている本だった。