Cathy O’Neil著「The Shame Machine: Who Profits in the New Age of Humiliation」

The Shame Machine

Cathy O’Neil著「The Shame Machine: Who Profits in the New Age of Humiliation

前作「Weapons of Math Destruction」(邦題「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」)でビッグデータやアルゴリズムが職場・教育・司法・医療などさまざまな場面において既存の社会的不公正を追認・拡大するばかりか、判断を一見中立的なコンピュータに任せることによってそれらに対抗する手段すら奪うように機能することを指摘した著者の第二作。本著で著者は「恥ずかしめ」の社会的・政治的な機能に注目し、それを増幅するプラットフォームアルゴリズムの問題や正しい使い方についてまとめている。

伝統社会において、恥の概念は共同体のルールを集団のメンバーに守らせるために発達した進化の産物だった。たとえば共同体のなかで自分だけ楽をしようとかいい思いをしようとした人が生まれたとき、ほかの人たちがその人を道徳的に非難するなどして恥をかかせることで、行動を改めさせたうえでよりよい成員として集団に再統合することができる。このように集団において周囲に迷惑をかける逸脱を防ぐために発達した「恥ずかしめ」の概念は、より複雑化した社会において貧困や外見など本人の自由にならないことについて社会的に弱い集団に自己責任を強い、かれらを見下すことに使われるようになる。著者は体型(体重)、貧困、薬物依存などさまざまな例を挙げ、それらが非難を受けて苦しんでいる本人たちの責任であるという形で「恥ずかしめる」ことが正当化され、それらの問題に対する適切な政策の実現を妨げるだけでなく、それに便乗する形でダイエット産業や貧困ビジネスなどによる搾取の場とされていることを指摘する。また、広告収入を増やすために他人を非難したりからかったりする感情を増幅するように設計されたソーシャルメディアなどのプラットフォームアルゴリズムは、かつてなら本人の周囲で止まっていたはずの「恥」をも全世界に増幅する機械になってしまった。

著者は、力のある人や組織が力がなく選択肢の限られた人たちに向ける「下向きの恥ずかしめ」と、その逆に力のない人たちが力のある人に向ける「上向きの恥ずかしめ」を区別する。前者の例が貧しい人たちのファッションや外見・ハビトゥスを笑う「ウォルマートの人たち」というミームだとすると、後者の例は非暴力不服従の原則によってイギリス帝国や南部州政府の不当性をアピールしたガンジーやキング牧師が指導した運動だ。しかし何が上向きで何が下向きかは完全には固定されていない。たとえばかつては同性愛が恥とされてきたけれども、近年では同性愛嫌悪のほうが恥とされるように変わってきているし、MeToo運動はこれまで性暴力やセクハラの被害者の側が恥を抱えさせられていたのをひっくり返し、多くの権力のある男性たちが標的とされた。近所に住んでいる黒人たちを大した理由もなく警察に通報する白人女性はかつては守られていたけれども、最近では「カレン」と呼ばれ非難されることが増えている。「恥」の所在が逆転しつつあることに対して、自分たちこそが迫害されていると感じるようになった白人男性らはそれを「キャンセルカルチャー」と呼び抵抗している。さらに困ったことに、ソーシャルメディアは本来力のない側による抵抗としての「上向きの恥ずかしめ」をも、場合によっては炎上を通して過度な暴力に変えてしまうことがある。ネットでつぶやいたたった一言の差別的な失言によって仕事を失い人生を変えられてしまうのは、「周囲に迷惑をかける逸脱をやめさせて、よりよい成員として集団に再統合する」という恥の本来の目的にはそぐわない。

2020年から猛威をふるったコロナ危機においては、マスクやワクチンの是非をめぐって双方が相手を恥ずかしめようとする事態が起こった。コロナの最初の流行の真っ只中のある日、著者の夫がうっかりマスクを忘れて外出したところ、すれ違う人たちから白い目で見られたというが、この程度であれば「マスクをつける」という、社会的に有益な行動をもたらすための良い「恥ずかしめ」だと言えるかもしれない。しかしたとえば、歴史的に人体実験のサンプルにされたり日常的に医療において差別的な扱いを受けている黒人コミュニティの人たちがワクチンに懐疑的になることには合理的な理由があるのに、ビル・ゲイツやアンソニー・ファウチら部外者がかれらを「非科学的な陰謀論者」と見下して恥ずかしめの対象とすることは逆効果にしかならない。「恥」が人々の行動や考えに与える影響は複雑で、公衆衛生政策への協力や人種差別や性差別への抵抗など正しい目的のためであっても「恥」をうまく使うのは難しい。「力のない側ではなく力のある側に向けているか」「反省して行動や考えを改める余地があるか」「すでに炎上しているなど、さらに非難することに意義が認められない状況になっていないか」など、いろいろ考慮に入れる必要がありそう。