Amber A’Lee Frost著「Dirtbag: Essays」
インディアナの労働者階級の家庭出身で、まだ数千人しかメンバーがいなかった時代のアメリカ社会民主党(DSA)の支部を保守的なインディアナ州で設立、ウォールストリート占拠運動に失望しバーニー・サンダースの選挙運動に期待を寄せた政治活動家・批評家・ポッドキャストホストの文章を集めたエッセイ集。
本書は親の仕事の都合で転校を繰り返した子ども時代の話など個人的な背景からはじまるけど、すぐに2010年代のリベラル・左派運動に対する毒舌すぎる論評に移行。組織や計画、目的を持たないことを誇り「全会一致」を尊重するという口実で何もしないことを正当化したウォールストリート占拠運動への批判するとともに、DSAの若者の集会に講演で呼ばれたのに大半の人には理解できないアカデミックなジャーゴンで「あなたたちの親はアメリカに税金を払っているからアメリカ帝国主義者の共犯者だ」と告発するインド人の著名学者(名前は出してないけど、分かる人にはガヤトリ・スピヴァクのことだと分かる)に対してブラモン出身である彼女自身がカーストの低いインド人や彼女自身の学生たちを搾取していることを指摘し、さらにはブラック・パンサー党をお手本に民間の相互扶助を推奨するディーン・スペードに対する「相互扶助と慈善行為に違いはない」という攻撃など。同意できる部分もあるけど、でもまあスペードの主張はきちんと理解していない気がする。
著者のもっとも激しい批判の対象となるのは、もちろんクリントン夫妻に代表される「第三の道」的なリベラルたちや、かれらを支持し労働運動を軽視する中流階層以上の左派・リベラルたちであり、彼女はかれらはマゾキズム(被虐性愛)、ペドフィリア(小児性愛)、ネクロフィリア(死体性愛)のどれかに分類できる「変態」だという。マゾキズムは自分がどれだけ特権を持った加害者であるか言い聞かせられることを好み反差別のポーズを取りたがると同時に社会変革の責任を差別を受けたマイノリティに押し付けようとする人たち、ペドフィリアは同様にグレタ・トゥーンベリや高校における銃乱射事件の生き残りら若者をありがたがり社会変革の主体にさせたがる人たち、そしてネクロフィリイアはアメリカにおける製造業やそれをベースとして力をつけた労働運動を「死んだもの」として切り捨てようとする––研究によれば死体性愛者のうち本当に生者より死者に興奮するのはごく一部であり、大半は自分の言いなりになる、抵抗しない相手を求めた結果死体に行き着いているという––人たちに対する比喩だという。
ほかのさまざまなマイノリティや社会運動の集団と異なり、労働者だけが政府や政治家を動かすまでもなく労働を止めることで直接資本家にダメージを与えたりかれらから譲歩を引き出すことができる、だから社会変革の主体は労働者以外にはありえない、という考え方は社会主義運動や労働運動のなかでは古典的なものであり、こういう人がDSAで活動していたというのはわたしにとっては意外だった。わたしがこれまで出会ったDSAの人たちの大半は、彼女が批判している中流階級出身の高学歴リベラルだったような気がするのだけど。