Gregg Mitman著「Empire of Rubber: Firestone’s Scramble for Land and Power in Liberia」

Empire of Rubber

Gregg Mitman著「Empire of Rubber: Firestone’s Scramble for Land and Power in Liberia

現在では日本企業のブリヂストン社に吸収合併されているかつてのアメリカのタイヤ大手ファイアストーン社が西アフリカにあるリベリア共和国で建設した世界最大のゴム・プランテーションの歴史についての本。19世紀の終わりにハーヴェイ・ファイアストーンによって創業されたファイアストーン社は、当初は高級馬車に向けたゴム車輪を製造していたけれども、ファイアストーンの親友でもあったヘンリー・フォードが生産をはじめた自動車の純正サプライヤーとなり事業を拡大した。しかし当時のアメリカは軍事物資でもあるゴムを生産できる地域を支配下に置いておらず、他国が支配する東南アジアなどの植民地から輸入する必要があったため、ファイアストーンやかれと同郷で支援もしていたタフト大統領などの政治家はアメリカの支配下のもとでゴムを生産することを考える。

ファイアストーンが目をつけたのが、アメリカからの解放奴隷が西アフリカに建国したリベリアだった。リベリアはアフリカで最も古い現存する国の1つで建国は1847年。当時アメリカでは北部で奴隷解放運動が広まるとともに南部はアメリカ合衆国からの脱退も辞さない態度が広まりつつあったけれど、奴隷解放に賛成している白人のなかでも、黒人を白人と平等な市民として認めようという人は少なかった。解放された黒人はアフリカに送り返すべきだという声が高まりアメリカ植民協会が設置されたけれど、多くの黒人たちは自分が生まれ育ったアメリカで権利を獲得したいと考えていたので、積極的にアフリカへの移住を希望する人は少なかった。ところが逃亡奴隷引き渡し法が成立し、奴隷ではない黒人でも「逃亡奴隷だ」と誰かが主張すれば連れて行かれる危険が高まったり、一部の奴隷所有者は「アフリカへ移住すること」を条件に奴隷解放をもちかけたりしたため、リベリアに移住する黒人たちもいた。もちろん、それなりの資本を持ってアフリカで一旗揚げてやると意気込んだり、とにかく差別を受けず自由に生きたいと自ら望んで渡航した黒人もいた。

そうした解放奴隷やその他の黒人移住者たち、そしてかれらに投資した白人投資家たちは、リベリアにアメリカ型の社会制度や市場経済を導入し、もともとそこに先住していたアフリカ人たちの土地を奪って植民地を作り上げていた。ファイアストーンや他国のゴムへの依存を避けたかったアメリカの政治家たちにとって、アメリカの植民地ではないものの、政治的にも文化的にもアメリカの影響を強く受けており、ほかの国の息がかかっていないリベリアは、その熱帯気候も含め、ゴム・プランテーションの建設に最適だった。ファイアストーンは1929年からはじまるプランテーションの建設に際して、大農園や工場を作り現地民の職を生み出すだけでなく、道路や病院、学校などリベリアが発展するために必要な施設を作ると豪語したが、その一方でリベリア政府に対してアメリカの銀行から借金してその使いみちにファイアストーンが口を出せるようにしろ、などの要求を突きつけた。またアメリカから大勢の白人マネージャやエンジニアなどを呼び入れ、人種的に隔離された居住区・病院・学校などを作るいっぽう、黒人たちはより高い技術を身につけたり昇進して経営に関われるような機会は与えられなかった。

ファイアストーン社のこうした植民地運営には、アメリカ政府だけでなくハーヴァード大学をはじめとするアメリカの学界も協力した。ハーヴァード大学のピーボディ考古学・民族学博物館にはリベリアからの資料が大量に収められているけれども、これはファイアストーンの協力のもと現地を調査した考古学者や人類学者が集めたものだし、ハーヴァード大学の研究者らは熱帯病の研究のため現地の先住民を対象に人体実験を行った。ファイアストーン社がプランテーション運営をはじめるとすぐに「奴隷労働が行われている」という批判が起きたが、アメリカ政府が国際連盟調査団の人選に関与した結果、奴隷労働はあったが悪いのはブローカーでファイアストーン社は関与していなかった、という結論が出た。

第二次世界大戦では東南アジアのゴム生産地域が日本軍に占領され、ファイアストーンが持つリベリアのゴム・プランテーションの重要性がさらに増したが、戦後アメリカで公民権運動が広まり、ガーナをはじめアフリカ各地で独立国が生まれてくると、ファイアストーンが行っていた人種差別的なプランテーション運営は批判を集めるようになる。またソ連とアメリカのあいだで冷戦が拡大するなか、アメリカ本国における人種隔離政策とともにリベリアにおけるファイアストーンの植民地主義的な行動は新たに独立したアフリカ各国をソ連の側に追いやる、外交上の弱点となった。経営不振によりファイアストーン社が日本のブリヂストンに買収されたあともリベリアのプランテーションはアメリカ人による経営が続けられ、最大でリベリア全体の国民総生産の3/4を生み出すなど、国全体に対する影響力は衰えなかった。1990年代に起きた内戦では、のちにシエラレオネ特別法廷で戦争犯罪を問われ有罪判決を受けた反政府組織軍事指導者のチャールズ・テイラー(のち大統領)にゴム農園を抑えられ、テイラーが率いる反政府組織に税金を支払いつつ運営を続けたため、テロリズムを支援していると非難されたこともあった。

ファイアストーンが20世紀にリベリアで行ったことは、ほかのアメリカ企業がニカラグアやハイチなど中南米で行ってきたこととよく似ているのだけれど、これまで知らなかったからゴム・プランテーションの規模からその影響力()、そしてハーヴェイ・ファイアストーンがヘンリー・フォード、トマス・エディソンら同時代の起業家やタフト大統領をはじめとした当時の共和党政治家と親しい関係にあり、アメリカ政府の外交・軍事政策に深く関わってきたことなど、驚きの連続だった。また、アフリカ系アメリカ人指導者のなかにあった保守派と革新派の対立、リベリアにおけるアメリカからの移民の子孫と先住民の対立など、植民地主義にはありがちな分断統治がここでも見られ、考えさせられた。