Erwin Chemerinsky著「Worse Than Nothing: The Dangerous Fallacy of Originalism」

Worse Than Nothing

Erwin Chemerinsky著「Worse Than Nothing: The Dangerous Fallacy of Originalism

昨年、妊娠中絶の権利を認めた50年前の判決を破棄する根拠となったことで注目を集めた「オリジナリズム」(原典主義)という法理論を徹底的に批判する本。著者は憲法や最高裁についての多数の著書があるUCバークレーの法学者。

オリジナリズムとは、憲法の条文はそれが書かれた当時の意味や意図によって解釈されるべきだという憲法論的な立場。憲法史的には異端な考えであり、1972年に妊娠中絶の権利を認めるRoe v. Wade判決が最高裁によって下されたことをきっかけにロバート・ボーク判事や右派法律団体フェデラリスト・ソサエティなどによって広められてきた。その信奉者は近年司法において影響力を増し、現在では最高裁判事のうち3人(トマス、ゴーサッチ、バレット)がオリジナリストを自称している。

オリジナリズムは裁判官が自分の思想に基づいて憲法を解釈し、憲法に書かれていない権利や義務を生み出すことを批判する。時代の変化とともに憲法が時代遅れになることはあるとしても、それは憲法改正によって対処すべきであり、裁判官が勝手に時代に合わせて憲法を読み替えるべきではない、裁判官は憲法そのものの文言とそれが書かれた当時の意味や意図をもとに判決を下すべきだ、と。一見まっとうなこの主張は、しかしそれ自体が憲法に書かれたことに基づいておらず矛盾しているだけでなく、憲法が書かれた当時想定されていない事態について判断ができないなどの問題があり、オリジナリストを自称する裁判官たちは実際には自分たちの思想や価値観に基づいた判断を下している。また、憲法改正には議会で2/3の賛成が必要であり、人種隔離政策の撤廃など現代のわたしたちが当然と思っていることはこの基準では実現し得なかった。

たとえば2010年のCitizens United v. FEC判決では、保守団体が2008年にヒラリー・クリントンを攻撃するために制作したドキュメンタリ映画の宣伝や上映は企業や私的団体の持つ言論の自由の行使であり、選挙資金規制の制約を受けないという判決が保守派判事たちにより下され、その結果、企業による無制限の政治活動が合法化されそれ以降の政治に大きな影響を与えている。憲法には企業の言論の自由は明記されておらず、それどころか言論の自由が憲法に書き込まれた当時は現代のような企業も映画というメディアも存在していなかったけれども、憲法に企業は例外だと書かれていない以上は言論の自由は無制限に認められるべきだという判断だ。

いっぽう2013年のShelby County v. Holder判決では、過去に人種による投票の制限が行われていた地域では選挙制度を変えるまえに法廷の許可を得なければいけない、という1965年投票権法の規定に違憲判決が下されたが、保守派判事たちがその根拠としたのは「州は平等であるべきで扱いに差があってはいけない」という漠然とした、憲法には書かれていない原理だった。しかし1965年投票権法は南北戦争後に憲法修正15条に書かれた「すべての人の投票権の保証」という規定が空文化していることに対応するためのものであり、憲法修正15条が書かれた当時は南部が南北戦争に敗北し米軍の占領下にあったことを考えれば、「憲法の文言が書かれた当時の意図」に基づけば南部の州が北部の州と平等であるという原理は認められるはずがない。

また教育における人種隔離を禁止した1956年のBrown v. Board of Education判決は、現代ではほとんど誰も反対できないほど受け入れられているものの、憲法が書かれた当時、あるいは南北戦争後に奴隷が解放された当時の価値観では人種隔離は当然のものとされていたことから、オリジナリズムの論者は論じること自体を避けることが多い。たとえばオリジナリストを自認する故スカリア判事がBrown判決について聞かれたとき、かれは「壊れた時計でも一日に二度は正しい時刻を示す」と答えたあと、すぐに話題を変えた。あるオリジナリストの法学者は人種隔離を批判した古い文献を挙げて「当時にもこういう価値観はあった」と主張したが、ほかの問題では当時の議員たちの発言や当時広く共有されていた価値観を根拠にしているのにBrown判決についてだけ当時のごく一部の人たちが主張していた少数意見を根拠にしているのは理屈が通らないし、それが良ければほぼどんな判断もオリジナリズムとして通用してしまう。

要するにオリジナリストを自称する保守判事たちは、リベラル系判事らと同じく、自分たちの価値観に基づいて憲法の文言を現代に適用させているのであって、憲法の文言やそれが書かれた当時の意味や意図を客観的に判定してそれに従っているわけではない。そもそもそうした客観的な判定は不可能だ。たとえば「出版の自由」に映画やウェブサイトが含まれるのか、というのは書かれた当時の人たちが意識していたはずがなく、「出版」の意味をどう解釈するか、ということになってしまう。自分たちの思想に都合に応じて狭くも広くも解釈しつつ、それを思想や価値観ではなく客観的な判断に基づいたものであると自称しているに過ぎない。

オリジナリズムの標的は、妊娠中絶の権利だけではない。投票権法の残りの部分やさまざまな環境保護政策、障害者や同性愛者の人権、犯罪被疑者や移民の権利、そしてアファーマティヴ・アクションなど判決によってこれまで認められてきたさまざまな権利が、「憲法に書かれていない、当時の意味や意図に含まれない」というだけの理由で、それらが憲法が掲げたさまざまな理念や原則に基づいたものであることも無視して、破棄されようとしている。最高裁の1/3を自称オリジナリストが占め、別の1/3がかれらと同じ政治的価値観を共有しているなか、オリジナリズムを押し止めることに著者は悲観的だけれど、少なくともかれらが依って立つ思想的な立場のデタラメさだけでも周知させようという意思を感じた。