Cody Keenan著「Grace: President Obama and Ten Days in the Battle for America」
オバマ大統領の筆頭スピーチライターが、アメリカという国のあるべき姿が問われた2015年6月のある10日間の政権内の激しい動きとともに、その最良のあり方を示そうとする本。
オバマ政権の内幕については、大統領夫妻がそれぞれ書いた回顧録や、Burton I. Kaufman著「Barack Obama: Conservative, Pragmatist, Progressive」、Claude A. Clegg III著「The Black President: Hope and Fury in the Age of Obama」など多数の書籍がでているけれど、この本はスピーチの内容をめぐってオバマと日常的にやり取りをしていた側近が、アメリカの行方の分岐点となるような状況を前にして苦しみながらいくつかの重要なスピーチをオバマとともに書き上げた一週間にフォーカスを絞り、ハンパない臨場感とともに綴った本。
米国では最高裁は6月の終わりから10月まで夏休みに入るが、慣例としてとくに社会の注目を集める重要な裁判の判決は夏休みの直前となる6月後半に下されることが多い。最近では妊娠中絶の権利を保証した過去の判例を取り消した2022年のDobbs v. Jackson Women’s Health Organizationの判決が出たのも6月24日だった。オバマ政権になって7年目の2015年6月に判決が注目されていたのは、オバマ政権の最大の功績である健康保険改革(通称オバマケア)の存続が危ぶまれたKing v. Burwellと、同性婚の合法化を求めて起こされたObergefell v. Hodgesの2つの裁判。前者でもしオバマケアに対する違憲判決が出れば、過去に何人もの大統領が失敗しオバマが政権をかけて実現した健康保険改革が無に帰すだけでなく、改革によって必要な医療を受けることができるようになった何百万人という人が再び健康保険を失うし、後者でもし同性婚が権利として認められなければこれまた何百万人というアメリカ人たちが待ち望んでいる平等な扱いが遠ざかることになる。
結果がどちらに転んでも大統領がすぐさま対応できるように、著者とかれが率いるスピーチライターたちは両方についてそれぞれ勝訴した場合と敗訴した場合の原稿、合計4つのスピーチを準備しようとするが、そういうなかサウスカロライナ州チャールストンの歴史ある黒人教会で白人至上主義者による銃乱射事件が勃発、州議会議員も務めた牧師を含め9人の犠牲者が出る。犯人は21歳の青年で、残された当人のウェブサイトには南軍旗など白人至上主義的シンボルとともに撮った自撮り写真や、黒人やユダヤ人、ヒスパニック、アジア人などについての人種差別的な意見を書いた文書などが見つかった。
任期中、それまでにも20人の子どもと6人の職員らが殺されたサンディフック小学校銃乱射事件などの銃乱射事件や、黒人少年トレイヴォン・マーティンの自警団員による処刑など黒人市民に対する殺害事件が多数起きており、そのたびに追悼の演説をし、銃規制や人種問題と向き合うことの必要性を訴えてきたオバマ大統領は、チャールストンの事件以前には「もう二度とこの問題で演説はしない」と周囲に語っていた。銃の販売の際の身元調査や登録など最低限の銃規制にはアメリカ人の9割が賛成しているにも関わらず、何度悲惨な事件が起きても銃産業と結びついた共和党の妨害で規制は一歩も進まないし、人種問題が注目を浴びるたびに「初の黒人大統領」としてなんらかのミラクルを期待されると同時に、少しでも差別に対する怒りや憤りを見せたら一斉に叩かれるのにもうんざりしていた。
本書のタイトルの「グレイス」は一般的には優雅さ、気品といった意味だが、事件の舞台となった黒人教会の伝統において宗教的には神が与える愛や恵みという意味であり、有名な賛美歌「アメイジング・グレイス」にあるように、どうしようもなく罪人であるわたしたちにはもったいない、本来なら受け取れるはずがないのに、それにも関わらず神が無条件で与えてくれるものと考えられている。黒人教会が説く「グレイス」の真骨頂が明らかになったのは、チャールストンの銃乱射事件から2日後、逮捕された犯人を保釈するかどうか決める審判における犠牲者の遺族たちによる発言。かれらは一人ひとり証言台に立ち、愛する人を失った悲しさや辛さを訴えつつも、犯人に向かって「あなたを許します」と続々発言。神様はすでにあなたを許しています。わたしもあなたを許します。どうかあなたの魂に神様のグレイスが届きますように、と。
改心したわけでもない犯人に対する一方的な、そして根拠のない許しは、多くの白人たちにとっては理解不能なものだったけれども、黒人教会の伝統に触れたことのある人にはよく分かるものだった。そしてオバマとかれのスピーチライターたちは、遺族たちが見せたこの「グレイス」にアメリカの希望を見出し、それを軸にとして、銃を使った暴力や人種問題などアメリカが抱える問題を訴えつつも、より素晴らしい未来に繋がる動きに加わるようすべてのアメリカ人に呼びかけるスピーチを準備する。事件のあった黒人教会で開かれた、亡くなったクレメンタ・ピンクニー牧師の追悼式典に出席したオバマは、宗教的な説教のスタイルを取り入れた、かれの最良のスピーチの一つと言われる演説を行い、その最後には「アメリジング・グレイス」を歌って聴衆を驚かせた(すぐに全員立ち上がり、大きな合唱となった)。
最高裁判決はどちらも僅差でオバマ政権が望んでいた結果となり、とくに同性婚を合法化する判決は追悼式典の当日に発表されたため、オバマはチャールストンに向かう直前にホワイトハウスで平等の権利の拡大を祝うスピーチを行った。その夜、オバマ一家が戻ってきたホワイトハウスはレインボーにライトアップされ、各地では同性婚合法化を祝うパーティが開かれた。黒人教会における白人至上主義者による銃乱射事件という絶望的な事件にはじまり、何百万人の人たちの医療へのアクセスと平等に生きる権利が脅かされたこの一週間は、しかし同時に歴史的な大統領と多くの人たちによってアメリカがより良くあるための道筋が示された、貴重な一週間でもあった。
オバマが語った希望はしかし、翌年の選挙でトランプが大統領に当選したことで、しばらく遠ざかることになる。奇しくもトランプがイスラム教徒やメキシコ人移民の排斥を掲げて2016年の大統領選挙への出馬を発表したのは、チャールストンの事件が起きる前日。しかしかれが就任した翌日には全国で女性たちによる大規模な抗議活動が行われ、イスラム教徒の多い国からの入国を一時的に禁じる大統領令が出た日には多くの人たちが全国の空港に押し寄せ、アメリカに渡航したけれども急に入国できなくなって立ち往生していた人たちへの支援が行われた。2020年には大都市だけでなく人口のほとんどが白人であるような田舎の小さな街に至るまで全国各地でブラック・ライヴズ・マターのデモが行われた。銃規制や気候変動対策を求める若い人たちの運動も活発になっている。
オバマ政権にもいろいろ問題はあったし、もっと〜してくれていれば、という期待を裏切られた気持ちはあるのだけれど、本書を読んで、オバマという人物自体がいまのアメリカにはもったいない、ありえないほどの「グレイス」だったという気持ちが強くなった。また、メディアのまえでは常にスマートなふるまいを義務付けられていたオバマが、側近のまえで怒りや憤りをストレートに表現している描写は新鮮で、かれにより親しみを感じた。ところどころに著者が差し込む絶妙なユーモアも楽しかった(たとえば、南軍旗の撤去を共和党のミット・ロムニーがツイッターで主張したのを見たオバマがスタッフにそのツイートをリツイートするよう指示した、という部分で、オバマの公式ツイッターアカウントに載せる内容は必ず内部で吟味することになっている、と説明するのだけれど、「ツイートの内容をオバマは指示したり承認したけれど、大統領が直接携帯からツイートすることはできないようになっていた、大統領に直接ツイートさせるなんてバカがやることだ」と書いている)。ネタバレはしないけれど本書の最後の文もキュートでメモラブルなのでぜひ読んで。