Cass R. Sunstein著「Sludge: What Stops Us from Getting Things Done and What to Do about It」
行動経済学でノーベル賞を受賞したリチャード・セイラーとの共著で「ナッジ」の概念を広めた法学者サンスティーンが、それと対象的な「スラッジ」の概念を説明する本。サンスティーンせんせーはめっちゃ多作で、重要な概念や考え方を簡潔に説明するだけの短い本をやたらたくさん書いているのだけれど、その中でもこれはアタリと言っていいかも。書かれているアイディア自体は単純で、短い文章で十分に展開されている(サンスティーンせんせー、これが十分でないことが結構多い)。
セイラーとの共著「Nudge」(邦訳『実践 行動経済学』)によると「ナッジ」とは、人々の自由を制限したり過剰なコストを押し付けない範囲で、行動経済学の知見を使って人々が(本人にとって、もしくは社会にとって)より良い行動を取るよう促すような選択アーキテクチャの仕組みを指す。たとえば、本人にとって有利な年金積み増し制度への加入が選べる場合、本人が特に選択しなければデフォルトで加入するように設定する一方、加入したくない人は簡単に断ることができるような設計がそれにあたる。
それに対して「スラッジ」(もとは工場などから排出される汚泥のこと)は、人々が自分が取りたいと思う行動を取ろうとしたときに、それを面倒でコストのかかるものにする選択アーキテクチャの設計を指す。たとえばある人が大学に進学したいとおもったとき、願書が必要以上に長く不要な個人情報を書かされたり、提出するためにほかのさまざまな書類を要求されたりする、などがある。スラッジにはたとえば新規契約は簡単にできるサブスクリプションサービス解約手続きを面倒にすることでなかなか解約できないようにするといった意図的なものから、消費者や一般社会を保護するための職業免許制度や政府予算の不正あるいは非効率な支出を避けるためのさまざまな届け出制度などさまざまなものがあり、全てが悪いわけでもない。たとえば携帯電話のデータを全消去しようとしたとき何度も「本当にいいですか?」と確認されるのは面倒だけれど、一時の感情に流されたり誤操作してデータを消してしまうリスクと天秤にかけたとき必ずしも不要だとは言えない。
著者はオバマ政権でホワイトハウスに起用され、政府のさまざまな部署で書類を減らすための仕事をしていた。ここでいう書類を減らすというのは単に電子化するという意味ではなく、文字通り人々が政府に提出しなければいけない書類を減らし、人々が教育や医療を受けたり事業を営んだりするうえでのスラッジを解消するという意味。自分がやろうとしたことはほとんど実現しなかったと著者は反省するのだけれど、2020年にコロナ危機が起きた際には各方面でスラッジが退治された。人々が収入を失い自由に外出できなくなるなか、福祉や失業保険の受給のために提出しなければいけない書類は大幅に削減され、役所での面会に出向く必要もなくなった。またこれまで医者が対面で診察しないと処方できなかった薬がリモート診察でも良いように変わったり、政府のさまざまな規制が一時的に停止された。わたしの周辺でも、ホームレスの女性を支援するためにわたしが関わる団体が受け取った政府系グラントの報告義務も緩和され、支援活動により注力することができた。
著者は、スラッジがどれだけ人々の自由を制限しているか普段から精査して、不要だったり利益よりコストのほうが多いものは解消していくべきだと主張する。たとえばある地域では、高校を卒業した生徒たち全員に対して少額の奨学金とともに地元のコミュニティカレッジへの合格通知を送るようにした。コミュニティカレッジはよほどのことがないかぎり入学希望者の全員を受け入れるのだけれど、入学するための書類は面倒で、後回しにしているうちに機会を逃す生徒は少なくない。この施策によってその地域ではコミュニティカレッジへの進学が飛躍的に増えたという。
福祉制度においても、受給資格があるのにそうだと知らなかったり申請のやり方がわからなかったり仕事で忙しくて役所が開いている時間に面会に行けなかったりで申請しない人が多い。「申請しなかったということは本当は必要ではなかったのだろう、本当に必要な人だけを支援するために多少のスラッジはむしろ有益だ」という人もいるけれども、実際のところ本当に必要な人ほど手間暇かけて受給資格を調べたり必要な書類を揃えたりする余裕がないことが多い。コロナ危機の際には支援が必要な人を取りこぼさないためにさまざまな支援制度の受給資格や手間が簡略化された(スラッジが解消された)が、もし仮にそれによって受給資格を満たさない人や本当に必要ではない人に支援が与えられたとしても、本当に必要な人に支援が行き届くほうが重要だし、ギリギリ受給資格を満たさない人たちがさらに困窮して「本当に必要な層」に転落することを防げるのであれば問題ない、というのが当時の多くの福祉当局関係者の判断だった。
こうした判断は、しかし福祉制度に対して批判的な立場から見ると、許容しがたい。不正受給を防ぐためには申請者にきちんとした書類を提出させたうえで厳しく審査するべきだ、としてスラッジをむしろ歓迎する人は多い。この対立は選挙での投票や妊娠中絶の問題になるとさらに深刻で、たとえば共和党は「不正な投票」を防ぐためとして郵便投票を制限したり公的な身分証明書の提示を義務付けたりする一方、民主党はより多くの人が政治に参加できるようにと郵便投票を推進したり有権者登録をより簡単にしようとしている。かつては黒人有権者の参政権を奪うために識字テスト(と称する、たとえば「石鹸一個から出る泡の数はいくつですか?」みたいな回答不能なテスト)がスラッジとして機能していたし、現在でも共和党は民主党の支持者が多い都市部で投票所を減らして長時間行列に並ばなければ投票できないようにしたり、その行列に並んでいる人たちにウォーターボトルを与えることを犯罪にしようとするなど、不正投票を防ぐのと全く関係ないスラッジも増やしまくっている。また妊娠中絶の問題では、中絶を受ける前に胎児が動いている動画を観なければいけないとか、決断を考え直せるように数日間待たなくてはいけないなど、精神的なプレッシャーを与えたり妊娠中絶を受けるためにかかるコストを増やして中絶を断念させようというスラッジが戦略的に増やされてきた。
合理性を欠いた政府の規制をなくせとか書類を減らせという主張は政治的主張の左右に関係なく支持を集めるいっぽうで、福祉や選挙での投票や妊娠中絶、あるいは銃の購入などをめぐっては、不正な受給や投票を防いだり、一時の感情で妊娠中絶を選んだり銃を購入するのを防ぐためにスラッジを積み上げるのは望ましいという考え方もある。とはいえ、仮に「最適なスラッジの水準」があり、その水準がどこにあるのかある程度の異論があるとしても、現状は明らかに不要なスラッジに溢れている。コロナ危機で解消されたスラッジはそのままにしておいて欲しいし、著者の言うように「スラッジ内部調査」を定期的に行ってスラッジの解消を進めるのはいい考え。
ちなみに日本語版Wikipedia(7/5/2022時点)では「スラッジ」のことを「ナッジの逆」として「行動経済学的知見を用いて人々の行動を自分の私利私欲の為に促したり、より良い行動をさせないこと」と書いているけれども、その文が描写しているのは「ナッジの悪用」であってスラッジではない。例示されている「ネットの買い物後、宣伝メールの送付が予め選択されていて解除が難しい場合や、社会保障の受給手続きが面倒になっている事」はたしかにスラッジの例だけれど、それらはただ単に面倒だったり分かりにくいから問題なのであって「行動経済学的知見を用いて」はいない。細かく言うと、「宣伝メールの送付が予め選択されている」部分はナッジ(場合によってはその悪用)であり、「解除が難しい」のはスラッジにあたる。