Carol Anderson著「The Second: Race and Guns in a Fatally Unequal America」

The Second

Carol Anderson著「The Second: Race and Guns in a Fatally Unequal America

市民による銃所持の権利を認めたとされる憲法修正第2条の歴史をたどりつつ、米国において神聖視される「武装権(自衛権)」の論理が一貫して白人至上主義の維持のために展開されてきた事実をこれでもかと記述する本。「One Person, No Vote」では現在共和党が各地で進めている非白人や貧困層や若者の参政権を奪うさまざまな施策が奴隷解放後に当時の民主党が解放奴隷の政治参加を阻むために行ったものと地続きであることを示した著者が、奴隷制を守るために生まれた憲法修正第2条に明記された武装権・自衛権が、奴隷解放後も、そして現在に至るまで、人種差別的に適用されていることを指し示す。

憲法修正第2条が個人による武器所持の権利を保証すると解釈されたのは実は今世紀になってからで、伝統的にこの条項は民兵や州兵が連邦政府に対抗するために武装する権利を保証していると解釈されてきた。しかしこの条項が作られた当時の人たちからみても民兵の存在が圧制や他国の侵略に対する有効な手段であるとは考えられていなかったが、いっぽう奴隷による反乱の鎮圧や逃亡奴隷の捕獲には有効だったので、憲法をめぐる議論では奴隷制度を抱える南部の州によって奴隷制を存続させるためのほかのさまざまな条項とともに民兵の武装権が要求された。そしてそれらの州では、白人による銃の所持が権利として認められると同時に、奴隷ではない自由人もふくめ黒人による銃の所持や使用が厳しく禁止された。

このような人種による武装・自衛の権利の格差は、南北戦争の結果奴隷が解放されたあとも、そして20世紀後半になって公民権法が施行され人種の平等が法的に保証されたあとも続いた。たとえばオークランドで発足したブラックパンサー党は、警察による人種差別的な差別に対抗するために銃による自衛を掲げたけれども、ロナルド・レーガン州知事やその他の政治家たちから「修正第2条は遵法的な市民のためにあるのであり、自衛権の濫用だ」と批判された。ブラックパンサー党は憲法と法律を学び銃の所持に関する法律を徹底して遵守していた(そして、だからこそ当局はかれらを取り締まることに苦労した)にも関わらず、かれらは遵法的だとはみなされなかった。結局、ブラックパンサー党の活動を止めるために、カリフォルニア州では銃規制の法律を成立させ、普段はあらゆる銃規制に反対している全米ライフル協会もそれに賛成した。

武装や自衛の権利が人種差別的に適用されていることは、ブラック・ライブズ・マター運動で取り上げられている多数の最近の例を見ても明らかだ。たとえば2012年に17歳の黒人少年トレイヴォン・マーティンは、フロリダ州でコンビニに買い物に行った帰りに武装した自称自警団の男性に追跡され、抵抗したところを射殺された。自警団の男性は追跡中に警察と通話し、警察から追跡を止めるよう指示を受けながら無視して被害者を追い回したのだけれど、自分が追い回した相手に反撃されそうになって自衛のために発砲したと主張し、無罪となった。同じ年、そして同じフロリダ州で、夫によるDV被害を受けて離婚した黒人女性マリサ・アレクサンダー氏は元夫に殺害を予告され、ガレージに置いてあった銃を手に取って天井に向けて警告の発砲をしたところ有罪判決を受け20年の刑を言い渡された。黒人少年を追い回して射殺しても無罪なのに、DV被害を受けた黒人女性が加害者への警告のために発砲したことが重罪になったことになる。

2014年、オハイオ州に住んでいた12歳の黒人少年タミール・ライスは公園でおもちゃの銃で遊んでいたところ通報され、その場に急行した警察官が到着した数秒後に射殺された。同じ年、同じオハイオ州ではさらに、ウォルマート店内で商品として売られていたBBガンを手に持って店内を歩いていた黒人男性ジョン・クロフォード氏が、別の客によって通報され、到着した警察官によって射殺された。監視カメラの映像により、クロフォード氏はBBガンを手に取ってからずっと携帯で会話をしており、誰かに銃口を向けるなど不適切な行動は一切なかった。どちらの件においても警察官が罪に問われることはなかった。

ルイジアナ州の黒人男性アルトン・スターリング氏は2016年、路上でCDを販売していたところ、警察に職務質問され、協力を拒否したところ警察官によってテーザー銃で撃たれ路上に組み伏せられたが、その際スターリング氏がポケットに入れていたハンドガンに手を伸ばしたとして、組み伏せられたまま警察官によって射殺された。その翌日、ミネソタ州で車を運転中に警察に停止させられた黒人男性フィランド・キャスティール氏は、自分は合法的に銃を携帯していると警察官に伝えたうえで、免許証を見せろと言われたのに従って免許証を取り出そうとしたところ、警察に射殺された。これらのケースにおいても警察官は罪に問われなかった。

2020年にはケンタッキー州で黒人女性ブレオナ・テイラー氏の自宅に深夜警察が突然侵入、たまたま一緒にいた彼女のボーイフレンドが警察だとは知らずに侵入者に対して発砲したところ、警察による大量の反撃を受け、テイラー氏が死亡した。警察官のうちの一人がテイラー氏の家ではなく流れ弾が隣の家に当たったことを理由に危険行為で責任を問われたほかは、テイラー氏の死に対して警察は罪に問われなかった。また同じ年、ウィスコンシン州で起きていたブラック・ライブズ・マターのデモ隊による暴動や略奪から現地の商店を守るという口実でイリノイ州の17歳の白人少年がアサルトライフルを持って現地に渡りデモに参加していた人2人を射殺、1人に重症を負わせたケースでは、少年は警察官に止められることもなく帰宅したのちに逮捕されたが、自衛しただけだとして無罪を主張し、BLMに反感を持つ人たちを中心に多くの人の指示を得た(この本の出版後、この記事を書いている前日に無罪判決が出た)。

これらの例からもわかるように、憲法修正第2条やそこに記された武装権・自衛権の論理が、米国独立当時から一貫して、白人が武装し、自衛の名のもとに黒人を支配し、同時に黒人が自衛することを禁じる、白人至上主義的な仕組みであることを抜きに、武装権・自衛権についての議論はできない。というより、武装権・自衛権の論理を観念的な政治思想・政治的信念として議論することは、それを神聖視するのであれ修正を目指すのであれ、現実に起きている安全や権利の不均衡から目を逸らすことに繋がるのではないか。