William MacAskill著「What We Owe the Future: A Million-Year View」

What We Owe the Future

William MacAskill著「What We Owe the Future: A Million-Year View

長期主義倫理の提唱者の一人として知られる哲学者による長期主義倫理についての本。長期主義とはわたしたち現存の人類が取る行動は子や孫の世代だけでなくはるか先の未来の子孫にまで大きな影響を与える可能性があり、わたしたちが取る行動の倫理判断においては現存する世代だけでなくかれらはるかな未来の世代に与える影響も同じだけ考慮されるべきだ、という考え。これは数百年、数千年という単位におさまらず、潜在的には太陽系が消滅する数十億年後までの人類やその他の種に対する責任が問われる。

未来の人類の生命にも現存する人類の生命と同じだけの価値があり、未来の人類の幸福も現存する人類の幸福と同じだけ大切だ、というのはもちろんそのとおりだと思うのだけれど、実際に将来の世代を倫理判断の基準に含めるといろいろ不都合なことが起きてしまう。たとえば将来存在する可能性のある人類(とくに他の惑星への移住が可能になるなら)の全ての世代の人口を単純に合計すると、現在存在する人類の総数とは比べ物にならないくらい多い数字になるはずで、功利主義的に考えればかれらの平均的な幸福を0.01%向上することは現世代の幸福を100%向上するよりはるかに有益ということになってしまう。わたしたちに将来の世代に対する責任があることはわかるけれども、現在貧困や暴力に苦しんでいる人たちに手を差し伸べるより、まだ存在すらしていない何百年・何千年先の将来の世代のために全てのリソースをつぎ込む方が(少なくとも功利主義的には)倫理的だ、という結論を論理的には導き出してしまいかねない主張には懸念を感じる。

長期主義そのものはどの世代にも当てはまる一般的な主張なのだけれど、著者は現存世代は今後の人類や地球上の種の将来に特に大きな影響を与える可能性のある特別なタイミングを生きている、と主張する。たとえば熱したガラスは形を変えることが容易だけれどいざ固まると変形するのが難しいように、歴史にも大きく動く時期とそうでない時期があり、現在はさまざまなテクノロジーの発達や環境の限界などにより特にガラスが熱く熱された時代だというのが著者の認識。すなわちわたしたちの世代が取る行動はこれまでの、そしてこれからの多くの世代のそれよりも遠い将来の世代に対してより大きな影響を与える可能性があり、したがってより重い責任が生じている。

著者が懸念しているのは、汎用人工知能の実現による社会制度の変化や生物兵器開発の簡易化およびそれによる人工パンデミックの発生などが、将来にわたって修正が困難な社会の崩壊や人類の壊滅・絶滅をもたらす危険だ。意外なことに気候変動や世界的な核戦争についてはそれほど懸念しているようではなく、というか仮にそれらによって人類の99%が死滅したとしても復興は可能だと考えているようで、化石エネルギーの使用による温暖化よりは地表近くにあり低い技術でも採掘可能な石炭が枯渇するほうが(人類社会復興の可能性を減らすという意味で)危険だという考え。わたしたち世代やわたしたちの子や孫までの世代が抱えているリスクと、それより長期的な人類のリスクは違うんだなあと思ったけど、正直、人類の99%が死滅した世界の復興を想定する議論にはなかなかついていけない。

現存世代のことだけを考えても、たとえばわたしは自分が住んでいる地域の平均より下の収入しか得ていないけれども、世界的にみれば確実にトップ10%の特権層に入る。だから自分は収入の大部分(あるいは少なくともかなりの部分)をより貧しい人たちに寄付すべきだ、という倫理的要請は感じるのだけれど、実際にそれはできない。また、本書では動物など人類以外の種が感じる苦痛についても考察の対象とされていてそれにわたしは賛成するのだけれど、わたし自身はヴィーガンではない。そんなわたしが何百年〜何億年も将来の世代に対する責任について論理的に説得されても自分の生き方を変えられるとは思わないし、それより先にせめてヴィーガンになって収入の1割でも寄付しろよって思うのだけれど、とても難しい。でもこういう考え方に触れることで、もしかしたらほんの少しくらいはわたしの生き方が変わるかもしれない。