Sherronda J. Brown著「Refusing Compulsory Sexuality: A Black Asexual Lens on Our Sex-Obsessed Culture」

Refusing Compulsory Sexuality

Sherronda J. Brown著「Refusing Compulsory Sexuality: A Black Asexual Lens on Our Sex-Obsessed Culture

アセクシュアリティを自認する黒人フェミニストの立場から強制性愛主義と白人至上主義、異性愛主義、健康主義、健常者主義、資本主義などさまざまな規範の繋がりを分析し、現在のアメリカで黒人女性やノンバイナリーやトランスを含む黒人女性近隣のアセクシュアルとして生きている現実を論じる本。

Angela Chen著「Ace: What Asexuality Reveals About Desire, Society, and the Meaning of Sex」にも書かれていたとおり、同じエース(アセクシュアルの人)を自認していてもその人の経験は人種や性別、階級、障害の有無、そしてアセクシュアリティ・スペクトラムのどこに位置するかなどによってさまざま。これはただ単に異なる背景を持っているから異なる経験をするというだけでなく、強制性愛主義やその他の性の規範が人種や性別などによって異なる作用をするからだ。本書は著者自信の立場でもある「女性として社会に扱われた経験のある黒人」としての歴史的そして個人的な経験に基づいて書かれている。

多くのフェミニストたちが指摘するように、「女性として社会に扱われる」ことは、本人の性自認や性的指向に関係なく、男性の性的欲望の対象となるよう期待され、そしてときに暴力的に強要されるということだ。レズビアンやアセクシュアルの女性(として扱われる人––といちいちそう書くのは面倒なので以下「女性」にしますごめんなさいゆるしてください)も例外ではなく、カミングアウトしなければ勝手に単に「遅咲き」な異性愛者であると決めつけられ、カミングアウトしてもむしろ「いいセックスをしてくれる男に巡り会えていないだけだ」として矯正的レイプの対象となることもある。

奴隷制において黒人女性は白人の奴隷所有者によって性欲の対象としてだけではなくさらなる奴隷を生産する手段として性行為を強要された。黒人は白人よりも獣に近い生物として規定され、黒人男性は性欲をコントロールできない(白人女性に対して)危険な存在であるとして予防的な、あるいは制裁を口実とした暴力の対象とされた一方、黒人女性も常に性欲が強いためどのような扱いをしてもレイプにはならない、とされていた。黒人としてアセクシュアルを自認することは、黒人とアセクシュアルそれぞれの相反するステレオタイプに衝突する、ありえない存在だと自己主張することになってしまう。

アセクシュアルコミュニティが現時点では白人中心的であることはChen著「Ace」にも書かれていることで、本書でも繰り返し批判されているけれども、著者は同時に黒人コミュニティ、とくに黒人クィアコミュニティの態度にも批判を向ける。印象的なのは、ハーレム・ルネサンスの代表的な黒人男性作家ラングストン・ヒューズと、ジェンダーや人種をテーマに加えたSF小説で知られる黒人女性作家オクタヴィア・バトラーについての記述。ラングストン・ヒューズはスタイリッシュな外見と女性との交際がなかったことから周囲からはゲイ男性と見られていたけれども実際にそうだという証拠はないし、オクタヴィア・バトラーも生涯独身だったことから周囲からレズビアンだと思われていたけれども本人は否定していた。かれらはアセクシュアルを自認してはいなかったけれども、インタビューなどに残された発言から専門の研究者たちはかれらがアセクシュアルに近いところにいた人だったと考えているのに、黒人クィアコミュニティの一部はそれを認めようとしない。

Kit Heyam著「Before We Were Trans: A New History of Gender」でも歴史上の人物をマイノリティのコミュニティ(たとえばトランス男性とレズビアンのコミュニティ)が取り合うような事態について取り上げており、そのように排他的な所有権を主張するよりは自分たちのいまのコミュニティの歴史に連なる存在としてお互いが共有するべきだ、と論じている。ラングストン・ヒューズやオクタヴィア・バトラーはどちらも、強制異性愛主義に抵抗したという意味ではゲイ&レズビアンコミュニティの歴史に繋がるし、強制性愛主義に抵抗したという意味ではアセクシュアルコミュニティの歴史に繋がる。本書の著者が望むのも、かれらをアセクシュアルだったと決めつけることではなく、かれら自身が現在のアセクシュアルコミュニティに繋がる生を生きたことを、そしてそうした生がゲイ男性やレズビアンと規定されずとも広い意味でのクィアコミュニティの内側にあることを、可能性として認めることだ。

アセクシュアリティについて表層的な理解で終わらせないために、広く読まれて欲しい。