Ernest Owens著「The Case for Cancel Culture: How This Democratic Tool Works to Liberate Us All」

The Case for Cancel Culture

Ernest Owens著「The Case for Cancel Culture: How This Democratic Tool Works to Liberate Us All

黒人でゲイのジャーナリストによるキャンセル・カルチャー擁護の本。

擁護論の本筋は、これまで有名人や権力者たちによるレイシズムや性暴力などに対抗する手段を持たなかった人たちがソーシャルメディアを通して対抗できるようになったことが「キャンセル・カルチャー」として叩かれている、キャンセル・カルチャーの弊害は過剰に宣伝されているが実際には「キャンセルされた」有名人や権力者たちは検閲されているわけではないし、一般人が標的になって職を追われるなどの例外的なケース(たとえばJustine Sacco氏のケース)もよく見ると企業による従来どおりの人事判断だ、など。わざわざ右派による攻撃のためのバズワードになっている「キャンセル・カルチャー」という言葉を使う必要はないのではないか、という意見に対しても、過去の「ポリティカル・コレクトネス」と同様にどう言い換えても右派は攻撃を止めないので、むしろキャンセル・カルチャーという言葉を右派から奪い取り正しく使うべきだ、と。

こういった本筋はおおむね納得がいくのだけれど、本書のなかで「キャンセル」という言葉があまりに広く使われ過ぎていて、なにがキャンセルなのか一貫していないように思う。たとえばイギリスによる徴税に抗議してアメリカ入植者たちが起こしたボストン茶会事件はキャンセル、公民権運動はキャンセル、トランプは移民やトランスジェンダーをキャンセルしたとか、キャンセルは決して左派だけが行うものではないと言いたいのだろうけど、それらを共通の言葉で表現するのはよくわからない。同性カップルの結婚式のためのケーキを作ることを拒否したコロラドのケーキ屋さんのケースを「平等のサービスを受ける権利に対するキャンセル」と「自分の宗教的信念に対するキャンセル」の対抗だと書いたり(この裁判の判決について正しく理解していない様子でもある)、キャンセルって結局なんなんだと。と同時に、キャンセルとは言論でなければいけない、倫理観に基づくものでなければいけない、などさまざまな要件を出してくるのだけれど、本書で「キャンセル」と表現されているものにはそれに当てはまらないものが多数ある。

正直、キャンセルという言葉があまりに多彩に使われすぎていて読みにくかったのだけれど、メインの議論は分かる、という感想。