Adrian Hon著「You’ve Been Played: How Corporations, Governments, and Schools Use Games to Control Us All」

You've Been Played

Adrian Hon著「You’ve Been Played: How Corporations, Governments, and Schools Use Games to Control Us All

ゲーム開発者の著者が、社会に浸透しつつあるゲーミフィケーションの濫用や悪影響を警告し、倫理的で人々を幸せにするゲーミフィケーションのあり方を訴える本。

ゲーミフィケーションは、スコアや実績解除、リーダーボードなどコンピュータゲーム的な要素をゲーム以外の場面に導入することで、つまらない作業や学習を楽しみながらできるようにしたり、作業の効率をあげようとする試みのこと。功績に応じて名誉を授与するなどのゲーム的な仕組みはコンピュータゲームが生まれるよりはるか昔から存在し、むしろそれらを元にしてゲームの中で実績解除してもらえるバッジなどの仕組みが作られたが、現代ではそれが政府や学校や雇用者によって市民や生徒や従業員を管理するために広く浸透している。それらはそうしたシステムを設計しまた導入する企業などによって、対象とする人たちを強制的に参加させ、監視し、利益を最大化するために利用されている。

著者はジョギングをしながら物資を拾ったりゾンビに追われたりするドラマを体験できるフィットネスアプリ「Zombies, Run!」や架空世界の人物と交流しながら現実世界に隠された宝物を探す代替現実ゲーム「Perplex City」の開発者であり、現実とゲームを交差させるゲーミフィケーションの中心人物の一人。しかしかれは、社会にはびこるゲーミフィケーションの実例の多くはただのつまらない現実に画一的なスコアや実績解除の要素を付け加えただけの「ジェネリックな」ゲーミフィケーションだと批判する。そうした例では、誰が何のためにどういう行動を推奨しようとしているのか深く考えられていないか、あるいはゲームに参加させられている人たちを幸せにするのではなくかれらを食い物にするようにデザインされていることが多い。

たとえばかれが関わった「Zombies, Run!」はジョギングをより楽しくするためのゲームだけれど、多くの同類のアプリのように一定の距離を走ることや、速度を上げること、毎日走ることなどを推奨するようなデザインにはなっておらず、走る人も歩く人も(仮想モードでは歩けない人でも)イヤフォンから流れるストーリーを体験しながら自由に楽しめるようになっている。作中ゾンビに追われた場合、普段の速度がどれだけであれそれより少しだけ速いスピードを出せば(歩いている場合は少し速歩きすれば)逃げ切れるようになっているほか、仮に捕まっても大きなペナルティはないし、毎日走れだとか次第に距離や速度を上げろという要求もしない。ジョギング中にスマホの画面を見るのは危険だしジョギングを中断させてしまうのでイヤフォンだけで楽しめるようにデザインされていて、ストーリーの合間にはそのストーリー世界におけるラジオ放送という設定で自分のスマホに入っている音楽が流れる。

一方アップルがiPhoneやApple Watchに採用しているフィットネスの仕組みでは、システムが毎日一定の運動をするよう要求し、目標を達成すれば「〜日連続で達成」というスコアが伸びる設定になっている。その人がその日多忙だったり疲れていたり病気だったりしても、「〜日連続」というスコアを途切れさせないために無理して運動をするよう促されてしまう。ほかの多くのフィットネスアプリも、間違った部分をゲーミフィケーションさせてしまったために、速度や距離を伸ばすことや毎日続けることが目的とされてしまい、本人の楽しみや幸せをないがしろにしてしまうことが多い。わたし個人もiPhoneやiPadで年間300冊近い本を読んだりオーディオブックを聴いたりしているのだけれど、iPhoneが勝手に「今年の読書目標」を決め(デフォルトで年間3冊、変更はできるけど読書目標そのものをオフにすることはできない)本を読み終わるたびに「目標まであと〜冊」とか「目標を達成しました」と報告してくるのが、読書そのものの楽しみを否定し、果たさなくてはいけない苦行として扱われているようで嫌な気分にさせられる。

ゲーミフィケーションの悪影響がより深刻なのは、自分の意思とは関係なく普通に生活しようとするだけでゲームに参加させられる場合だ。なかでも市民の行動を監視して「社会信用スコア」を集計し、それによって教育機会や就業機会、旅行の可否を決めようとする中国の社会信用システムは国際的な批判を浴びているが、中国政府が行っている最悪の例に注目することで、それよりいくらかはマシなだけの同様の仕組みが民主国家でも広まっていることから目を逸してはいけない、と著者は主張する。

たとえば学校において、出席や生活態度に応じてシールを貼ったり成績を張り出したりして生徒間の競争を煽るような仕組みはゲーミフィケーション以前からも存在したけれど、現代のアメリカでは小中学校の95%において教師と生徒、そして生徒の保護者に向けて作られたあるSNS的なサービスが採用されている。このサービスを通して保護者は学校の様子を写真や動画で知ったり教師に連絡を取ることができるほか、教師は生徒のさまざまな行動に対して評価ポイントを与えたり差し引いたりすることができる。この仕組みが導入された教室では、教師が評価ポイントを上げ下げすると教室全体にその音が響き、それを聞いた生徒たちが誰に加点もしくは減点されたのかと周囲を見回すなど緊張が広がり結果的に教室は静かになるものの、減点されるのが怖くて学校に行きたくないと言い出す生徒もいる。個々の生徒の普段の行動をデータ化したものがプラットフォームを運営する企業によってどのように扱われるのか、そしてそれらが子どもの将来の機会を奪うことにならないのか、という懸念がある。

また労働の場面では、Karen Levy著「Data Driven: Truckers, Technology, and the New Workplace Surveillance」で取り上げられていたトラック運転手をはじめ、Uberの運転手やアマゾンの配送センター作業員ら多くの職場において、監視テクノロジーをゲーミフィケーションと組み合わせて実績解除を競わせたりリーダーボードによる賞罰を実施する例が増えている。たとえばあるアマゾンの配送センターでは、時間内に移動した箱の数やトイレ休憩の長さなどに応じたスコアを競わせるだけでなく、作業員の仕事中の負傷を防ぐためとしてゲーミフィケーションが導入され、負傷がなかった日はその日の従業員全員にスコアが与えられるようにしたところ、同僚のスコアを下げることを恐れた作業員たちは負傷を申請しなくなった。同様に、十分な休暇を取ったり病気になったときに休養するとスコアが下がるような仕組みが導入されると、労働者たちは無理な労働を続け体を壊したり職場で感染症を蔓延させてしまった。

ゲーミフィケーションは退屈な作業をより楽しく行えるようにすることで作業効率を上げるとされているが、退屈な作業に「ジェネリックな」ゲーミフィケーションを重ね合わせるだけの設計では決して作業は楽しくならないし、効率も上がらない。「Zombies, Run!」が楽しいのは、それがゲーミフィケーションだからではなく、もともとあるジョギングの楽しみを邪魔せず、そのうえで良質なストーリーを楽しめるような設計になっていたからだ。ジョギングを楽しまない人やゾンビに興味がない人に無理やりやらせても楽しいはずがない。にも関わらずつまらないゲーミフィケーションが企業や学校によって採用されるのは、実績解除やバッジというかたちで競争を可視化するとともに労働者からさらなる労働を搾り取り、体を壊したりメンタルをやられて競争についていけなくなった人たちを「自己責任」として排除するのに都合がいいからだ。

本書ではほかにも、選挙運動におけるゲーミフィケーションや、陰謀論の拡散が代替現実ゲームの娯楽と同じ構図を取っていることなど、ゲームとゲーミフィケーションが政治に与える影響についても扱ったうえで、倫理的なゲーミフィケーションのあり方とはどういうものかと論じている。たとえばエクササイズをしたいと思った人がより楽しくエクササイズをできるようなゲーミフィケーションは良いけれども、運動した時間や継続日数、燃焼したカロリーなどを掲げて数字を積み重ねたり実績解除をするだけのゲーミフィケーションは本来の目的とは外れた強迫観念を生み出す弊害がある。また、教育や労働など普通に生活するために必要なことをやるために強制的にゲームに参加させるような設計は規制されるべきだし、ソーシャルメディアが「いいね」を稼ぐためのゲームになってしまっていることも考え直す必要がある。ゲームやゲーミフィケーションは人々の幸せのためにあるべきだ、という実績あるゲーム設計者ならではのゲーム愛がすばらしい本。